三人のアンヌ(ネタバレ)/雨の日は傘をさして

ライトハウス(灯台)はいらない?

初のホン・サンス作品。レンタルで見ました。
監督がリスぺクトしている「エリック・ロメール」だぞ!っと言われりゃ、確かにそうだよなぁと妙に納得してしまうんですが、美しい海辺を舞台装置に、男女の機微やすれ違いを描いたロメール作品とはおよそかけ離れた、何の変哲もない海岸が登場します。同じアジアに住む日本人が見ているという事を差っ引いても、相当ひどい撮り方なんですよ。審美的な海のカットなんてほとんどないに等しい。イザベル・ユペールがペンションのベランダから海を眺め“美しいわ”なんて言うものの、画面に映ってるのは、せいぜいが干潟の一部くらいで(最初、どこかの工事現場かと思いましたもん)、何がどう美しいのかさっぱり分からない(笑)。撮りたいものは男と女がいる風景やその関係性の方なんでしょうね。フィックスの多用と長回し、そこに突然カメラが何度かズームしたりもするものの、動的な感じはしない、ゆるゆるした作品です。

映画監督の役柄を登場させるためなのか、フランスを代表する演技派女優に焼酎を瓶ごとがぶ飲みさせて、何度も“ふぅー“(「うぃー、焼酎は効くぜー!」って言ってるみたいです)と言わせたり、ヤギの鳴き真似をさせたいが為なんでしょうか、映画学校に通う若い女の子が書いている映画の脚本なんだとかなり無理な設定を持ち込んでます。脚本家を登場させたことで一応メタフィクションの構造にはなってますが、あんまり関係なさそう…。親戚の借金を押し付けられた、男にひどい目にあわされた女子が脚本の中で韓国の男どもに復讐すしてるんじゃないかと思えるくらい、登場人物の男性の扱いはひどい━脳筋のライフガードに、嫉妬深く、自意識過剰の映画監督(第2話の人)、浮気性の映画監督ですもの。その代りと言っては何ですが、作品全体を覆う即興的な軽さが、大女優イザベル・ユペールから他作品ではなかなかお目に掛かれない可愛らしさを引き出していて、ここは眼福でした。

異国の地で、異邦人が陥るコミュニケーションの「ずれ」から、孤独や疎外といったテーマ性を汲み取ろうにも、 緩いコメディで何度も脱臼するので、いつのまにかどーでもよくなってしまいます(笑)。それぞれの事情から海辺に引き寄せられた女たちは、人生の岐路に立たされていて、ライトハウス(灯台)=人生の指標を探してるのでしょう。でも、誰もその「灯台」には辿りついてないんです。第2話の人妻(赤)だけが灯台を見つけますが、これは彼女の幻想(夢)だと思います。で、脳筋男ライフガードと寝るのか寝ないのかが全話通しての焦点となり、最終的に第三話のおんな(緑)がそれを達成するんです。
情事の後、ぐぅぐぅ鼾かいて眠ってる男の鬱陶しさを(しかも、リゾート地のコテージならまだしも、公園のトイレ脇の簡易テントでですよ。イザベル・ユペールが纏うイメージとの落差でニヤニヤしちゃいます)━ちゃんと見せてくれますから、ココは拍手したいくらいでしたね。行きずりの情事でエネルギー充填した女は、何故か虚構(脚本)上の全能知を与えられ、第2話のおんな(赤)が隠した雨傘を見つけだし*1、雨の中を軽やかな足取りで去っていく、奇妙なお話しではありますが…。

*1:第三話のおんな(緑)が浜辺に捨てた焼酎の瓶が第一話のおんな(青)のパートに出現したりもします。微妙にリンクしていくんですよね

大いなる沈黙へ -グランド・シャトルーズ修道院(ネタバレ)/沈黙の音を聞け

唯、十字架だけ

撮影許可が下りるまでに16年を費やしたドキュメンタリー。
戒律の厳しい修道院内が見られる機会はそうないぞ!とばかり、俗な好奇心を押さえられずに観て来ました。
まず、目を引くのは自然光のみで撮影された映像の美しさ。質素な室内に流れ込む透明な光が、対象の輪郭を柔らかく浮かび上がらせ、このまんま絵画になってしまいそうなくらい。
撮影機材は少なくとも二種類。明らかな違いが手に取るように分かります。フィルムの粒子の肌理がまるで違うんですもの。機材の使い分けはそう単純ではないようで、修道院の内と外、あるいは昼と夜と言った法則性もなさそう。詳しい方なら、何か見つかるかもしれませんが…。


カルトジオ会のグランド・シャトルーズ修道院は、他の修道院と際立った違いがあり、その建築様式に修道院の理念が凝縮されています。
同じカルトジオ会のシャルトリューズ・ド・クレルモン修道院が1850年代に復元された際に作成された図面が残っていて
カルトジオ会 - Wikipedia

シャルトリューズ・ド・クレルモン修道院の図面


中庭とそれを囲む回廊で、その周囲に同じような形をした18個の部屋があるのが確認できる。これらが修道士の個室である。

完全個室完備の修道院で何よりも優先されているのが「孤独」なんです。
自給自足の生活*1で、修道士たちは「すべて労働は祈りにつながる」よう、各自が担当する作業と礼拝堂でのミサ以外、一日のほとんどを個室で過ごします。
美しいアーチヴォールト(「穹窿(きゅうりゅう)」)のある回廊に面した個室の壁には小さな鍵付き扉が設えてあり、助修士(聖職者にならずに、生涯、修道院の雑用を担当する人)が木製ワゴンに積んだ食事を鍵を開けて届けてました。これって、ものすごく変な表現ですが刑務所と変わんないですよね。ココまでして孤独な環境に身を置くのは、修道士たちは全霊をかけて「祈る」為だからなんです。彼らは物心両面に渡っていかなるものも「所有」しない。その代りに祈り続ける、兎に角、祈って、祈って、祈り続ける。
精悍な顔立ちの若い修道士から、盲目の老人までが静謐な祈りの中に内なる魂を浸している。私ならすぐ居眠りしちゃいそうなんですけど(笑)。


ドキュメンタリーのありがちなナレーションもなく、劇判もない。この作品自体が、とても慎ましく禁欲的です。
序盤、修道士たちが次々に個室に入っていく際、壁に手を添えている事は分かっても、何がそこに置かれているのかもわからない。聖水盤だと分かるのはかなり後になってからです。
礼拝堂(教会堂)でのミサも、画面中央から上に浮かぶ赤い光(聖体ランプじゃないかと思うんですが)以外、漆黒の闇。やがてポツポツと他の光が現れて、何やってるんだか、ここがどこなのかさえなかなか分からないです。教会が生活の身近にある人ならすぐにピンと来るのかも知れませんが、私はグレゴリオ聖歌が流れるまでミサだと分からなかった。俯瞰気味の画で、教会堂の精髄、祭壇にもカメラは近寄りもしないんです。豪奢な教会建築、壮麗な典礼で知られるクリュニー会とは違って清貧を重んじるカルトジオ会は、そもそも華美な様式とは無縁で、一番派手な(笑)場面は「オステンソリウム(聖体顕示台)」らしき装具の登場ぐらいでしょうか…。
ここまで禁欲的でなくても、もちっと見せてくれてもいいのにと思ったんですが、多分、監督の意図は、典礼やサクラメント、あるいは教会建築や美術と言った、信仰の外側に興味があるのではなく、そこに住まう、神と共に生きる修道士を記録する事に重きを置いてるんでしょうね。
雑な表現ですが、バチカンを頂点とするカトリック教会が、世俗との繋がりを持ち、救済事業を行うのに対して、グランド・シャトルーズ修道院では、世俗との関係はほぼ無いに等しい*2。同じカトリックでも大乗仏教と上座部仏教くらいの違いがあるのではないでしょうか。。


作品中、聖書が繰り返し登場してましたけど、一番印象深かったのが『一切を退け。私に従わぬ者は弟子にはなれぬ』の一節。
何も所有してはならない修道士たちに、禁欲、清貧を説く言葉のようにも思えますが、「一切」を退ける━その一切にはひょっとして神の救済まで含まれるんじゃないかと、観終わったとじわじわ考えてしまいました。言語では決して分節できない状態にまで自身をひたすら高めていくのには、まず「言葉」ありきでは難しいんでしょうね。言葉を封じられた*3沈黙の世界は、修道士たちの素朴な生活から生まれる生そのものが息づく確かな手ごたえと、アルプス山系の厳しい自然が磨き上げた音に満たされ、とても豊潤な世界にも思えました。「沈黙の音」は決して音のない孤独な世界ではないです。

*1:電気バリカン、スニーカー、ペットボトル入りの水、パソコン、靴の修理様の接着剤、皮膚病の治療薬等も登場してました。清貧を重んじながらも、現代の文明、文化を完全にはシャットアウトしているわけではない

*2:ソウル出張の話が出てましたから、完全に俗世を断ってるわけではない。これも時代なんでしょうね

*3:安息日以外、会話は原則禁止で「沈黙」の修練なんです。これはか細き神の声を聞き逃さない為でもあり、カトリックの根本教義「三位一体」の内、「聖霊」の顕現にも関わってそう

思い出のマーニー(ネタバレ)/白鳥は哀しからずや空の青

青い二重窓


予告トレーラーにあった金髪碧眼の少女との百合百合しい接触を、ローティーンの御嬢さん方に囲まれて中年夫婦が食い入るように大画面を見つめる画を想像しては、「これはないな」と観ないで済ますつもりだったんですが(笑)、「ジブリ解散か?」の報道を知り、ジブリ作品の見納めとなるかも知れないと思い、お盆休みに観て来ました。
予想に反して、お客さんは私たちくらいの年齢層が一番多く、女の子だけのグループはほとんど見かけなかった。やたらと感動を売りにしている「ドラえもん」に流れちゃったのかな?
原作は未読な上に、一回観たくらいでは理解が覚束ない所(特に嵐のサイロの場面)が多々あって、アップするのを躊躇したんですが、頭の中の整理がしたくてざっくりした感想になりますけど、一応記事にしておきます。


目に見えない魔法の輪の「外側」に自らを追い込んでしまって「私は私が嫌い」だった少女が、「イマジナリ―フレンド」との交流を通して“私はあなたが好き“━大嫌いだった自身をもうひとりの「私」が赦し、受容する、つまりは自身を肯定できるまでに成長する物語。モノクロームのデッサン画が豊かな色彩を纏うまでのお話でもあるし、心を閉ざし他者を遠ざけながら、一方でその寂しさに悲鳴を上げてる心が折れるように「鉛筆」もまた力加減が上手くいかずに折れてしまう。その鉛筆を上手く削れるようになるまでのお話でもあり、パーティーで髪に刺した薄紫の花が、髪留めとなって還ってくるお話でもある…といった具合に、相当練られた脚本だと思います。最初に「湿っ地(しめっち)屋敷」を訪れた際のボートの揺れに怯えていた杏奈が湿地を素足で歩くまでに変化するといったリアクションを始め、スケッチブック、鉛筆、髪留めといった小物に到るまできちんと反復されており、それらがどういう変化を遂げたのか、最終的にどこに収まるか、細部に至るまで徹底して構築されており、これ以外にも見直せば相当数見つかる筈。


主な作品舞台は海(水)と陸(地)、二つの世界が入り混じる湿地の入り江。現実と幻想のあわいがあやふやな杏奈が、もう一人の私(マーニー)に出会うにはこれほど似つかわしい場所はないでしょう。
マーニーを閉じ込めていた「青い二重窓」は、杏奈の「青みがかった瞳」でもあるんですよね。杏奈の見る世界は「二重の壁(窓)」に縛られていたんです。
血の繋がらない母が役所から支援金を貰ってると知ってから杏奈は心を閉ざすようになった様ですが、養母から受けていた「愛」がお金目当てだと知った(これは杏奈の思い込みですが)辛さで、養母頼子との間に隔たり(壁)を築いた上に、あの繊細過ぎるほど繊細な頼子が、その事を敏感に察している娘杏奈の態度=無表情な顔に、ますます萎縮してしまうという悪循環。ただでさえ、この年頃の女の子には母は「重い」のに、頼子が気づかいすればするほど、その思いやりを素直に受け取れない杏奈を追い詰めてしまう。大岩セツさんなら“ガハハ”と笑い飛ばしてしまうでしょうけど、頼子は金を受け取ってるという事実を必要以上に負い目に感じてしまうタイプなんでしょう。
絵の先生から「絵を見せてごらん」と差し伸べられる「手」に、頬を赤らめながらも一旦はその気になった矢先、タイミングよく(悪くかな)起きたアクシデントで無残にも潰されてしまう場面も。「絵」は杏奈が唯一世界に向けてアウトプットできるものでしょう?性的な成熟をジョークにできるだけの術を既に身に付けている、「大人」の世界に片足かけてる同級生の姿を目の当たりにした気おくれと少女特有の潔癖さから築いた「壁」の上に、わずかなすれ違いから、自分をさらけ出せる機会=絵の披露も諦めてしまう。
ギクシャクしてる養母との関係と、思春期の青い屈託、彼女は二重の壁(窓)の中に囚われているんですね。

未来で待ってて


三日月の夜にマーニーと最初に出会い、満月の夜に二人でダンスする。「湿っ地(しめっち)屋敷」にボートを漕ぎだすのは満潮時。潮の満ち引きにも月の引力が関係していますし、満ち欠けを繰り返す月の永遠性は神話世界の時代から女性性との結びつきがひときわ強いものです。
現実と虚構、二つの世界が溶けあう湿地はもう一つの世界軸、過去と現在をも反映してたんですね。
杏奈の祖母がマーニーであり、杏奈は両親の死後、彼女を引き取った祖母から聞いていた「昔話」を元にイマジナリ―フレンドを作り上げた。遠い昔に忘れてしまったはずの物語が彼女の潜在意識の中から羽ばたき動き始めるんです。孤独な子供時代を送った祖母(の昔話)と、現在の時間軸にいる同じく孤独を抱えている杏奈とが時空間を超えて共振し、やがてそれが自らが作り上げた鏡像であったと受容する事で杏奈の成長は遂げられる訳なんですが、ちょっと引っ掛かる所があるんです。夢の中(幻想世界)のマーニーが完全な杏奈の欲望の鏡としての鏡像からふらふらと逸脱していくような感じを受けたんですよ。杏奈の無意識の願望とは別に、ひょっとしてマーニーはマーニーとして自律してるんじゃないかと思われる箇所がある。ココはもうDVDじゃないと無理なので、いづれ掘ってみたいなぁと思ってる所です。
宮崎監督が関わってない作品に過去作を参照するのもどうかと思うんですが(笑)、『ハウルの動く城』に登場した「どこでもドア」には、ハウルの幼少期の記憶(もしくは時空間)に直結した場所がありました。ソフィーは暗黒面に魅入られていくハウルを救う為に、彼の過去(の記憶)に越境します。本作のマーニーも、杏奈が照射する理想の自画像以外に、孫娘を想う祖母の祈りみたいなものが照射されていたら素敵だなぁなんて思ってます。


もうひとつ、杏奈は諸々の屈託から、一度は過去を忘れ去ってしまいましたが、喘息の療養のために彼女を引き取ったセツさんは過去を絶対に忘れない人。このふたりは対照的なんです。杏奈を迎えに来た車に積み込まれた雑多な荷物(信楽焼のタヌキまであった)、しょっちゅうお菓子を食べてるおデブさんでしたけど、彼女は「記憶」を手放さないんです。娘の部屋も、靴も大事にとっておく人でしたもん。
夜遅く、浴衣を泥だらけにして杏奈が戻っても、笑い飛ばして追いつめたりしない。汚れた浴衣が、綺麗に洗濯されて青空の下、気持ちよくたなびいてる風景そのまんまの人。単にガサツなだけじゃないんですよ。一番感心したのが、終盤、心配性の頼子が杏奈に電話を掛けてこないように牽制していたと分かった時(頼子に向かって、貴女も電話をよく我慢したねと話してた)。杏奈を一人で釧路に寄越すように指示したのも多分、彼女でしょうね。
互いが互いを思いやるが故に煮詰まってしまっていた親子関係をほぐすには、適度な距離と時間が必要な事を分かっていたのでしょう。杏奈は大岩夫婦の大らかな愛情の下、豊かな自然に抱かれた世界を「幻想」の翼で何度も行き来し、自分を取り戻してゆきます。

「ふとっちょ豚」と悪態をついた信子との和解も捻りが効いていてよかったです。体型から考えても信子ちゃんはセツさんと似てるんですよ。杏奈が信子との関係を一旦カッコ内に入れたまま「どうかなぁ~」と答えたのは、養母に心配をかけないように「良い子」を演じるのを降り、あるがままの自分をさらけ出せるようになったからでしょうね。口先だけの和解で穏便に事を済ますより、自身の心の中で本当の友人になりたい(信子には押しの強さがあって、杏奈みたいな子はちょっと苦手なはず)という思いが育つまで待つといった方がいいかしら。。このふたりの関係にはこの先まだ見ぬ「未来」が待っています。真っ白なスケッチブックに何が書かれるかは、未知数ですもの。
屋敷からマーニーの日記を発見した功労者、メガネっ子ちゃんと杏奈が並ぶと「トトロ」のさつきとメイのように見えて仕方がなかった(笑)。
杏奈とマーニーがキノコ狩りをする森の美しさは本作一番の見所。これを手書きでやる労力は凄いわー。ジブリ作品での食事シーンは有名ですが、杏奈がもぎたてのトマトを切る包丁さばきも中々なモノ。トマトのヘタを包丁の刃元でちゃんと三角に切ってます。お料理をする人がコンテを切ったのかな?
この他にも、手(指)の動きが素晴らしくて、ウットリと見入ってしまう場面がありました。

新しき世界(ネタバレ)/最上の国産牛

金属バットと包丁

BL好きのお姉さまたちから熱狂的支持を得ていた本作、レンタルで見ました。
ゴールド・ムーンの実質No.2 チョン・チョン(ファン・ジョンミン )と イ・ジャソン (イ・ジョンジェ)は出来の悪いお兄ちゃんと優等生の弟のような関係で、このふたりは「華僑」出身、同じ出自なんですね。血縁(の濃さ)が優先される韓国社会ではむしろマイノリティ。
“韓国産(国産)の牛肉が最上”なんだと、作品内で何度か触れられてましたが、これはやくざ組織ゴールド・ムーン*1が他勢力を吸収合併し巨大組織となった今日でも、その権力の至高の座は韓国の伝統的血脈=国産が最上というニュアンスを含んでの事なんでしょう。


華僑の出自を生かして、躍進目覚ましい上海との強いパイプを築いたチョン・チョン& イ・ジャソン 組には、その命の軽さを売り物に、血生臭い汚れ仕事を引き受けて「韓国国産組」に食い込んでいった過去がありました。これは、チョン・チョン& イ・ジャソン 組に便利使いされていた中国籍の朝鮮族(北朝鮮と中国北東部の国境付近に住んでる朝鮮族の事じゃないかと。脱北者は命がけで中国に渡っても、激しい差別を受けるのでしょう)との関係にも似ています。
イ・ジャソンは自身の出自を知る者をすべて排除し、流血で塗り固めた「新しき世界」を手に入れましたが、組織に残る「国産組」を排除するために、今後も命の値段がけた違いに安いマイノリティの血を求めていくのでしょうか、それとも警察と華僑、究極のマイノリティであった彼だからこそ、純血(血の近さ)を忠誠心の証とはしない、まさに「新しい」世界を作り上げるのか━正当な血統より、寧ろ傍流の方が何かと革新的、過激になるのは組織の常。長らく生きながらえてきた血脈には傍流さえ巧みに取り込んでさらに生きながらえようとする政治的感覚に秀でた人物を輩出しますから(本作ならNo.3、チャン・スギみたいな人物)「新しき世界」のその後がとっても気になりました。


エピローグで明かされる6年前の一場面。まだ駆け出しのチョン・チョンとイ・ジャソン が包丁持って、敵対するやくざの事務所(?)に殴り込みます。ソウル警察カン・ヒョンチョル課長( チェ・ミンシク )にスカウトされた、警官の制服姿が「初々しい」(この表現以外、思いつかない)イ・ジャソン の、まだ何ものにも染まっていない初心な相貌が、深い翳りを帯びて、徐々に変化していく様を時系列に沿って順に見せていくのではなく、生き残るためとはいえ彼がこんなにも遠くまで来てしまった、その現実を不可逆的にあぶり出し、決して後戻りできない瞬間を鮮烈に焼き付ける脚本の構成の上手さには唸りました。これはイ・ジャソンを「ブラザー」と呼びじゃれる、懐く(この表現以外思いつかない)チョン・チョンもそう。イ・ジャソンが裏切り者=潜入捜査官を命を賭して守る理由が、6年前のエピローグで情感豊かに明かされます。BL好きのお姉さまたちは多分ココに萌えるんじゃないかなぁー、私はアンテナがないのでよく分かってませんが…。
月面クレーターのようなチョン・チョンと並ぶと、ゆで卵みたいにつるんとしたイ・ジャソンの肌の美しさはひときわ際立ちますね。コ局長を始め、独特の顔を持つ役者さんが印象深い作品です。銃がほとんど登場しない(連絡係だった囲碁のお姉さんを銃で殺害したのは、苦しみを長引かせない為でしょうし)包丁と金属バットの様式美は、同じ韓国映画「悪いやつら」、ジョニー・トーの「エレクション 黒社会」もお馴染み。ハリウッドリメイクが決まってるそうで、「銃封じ」がどこまでできるか、そこに興味あります。

*1:チェ・ミンシク を買収しようとした時の小道具が「月餅」でした。何か関係あるのかしらん?

La Vénus à la fourrure 毛皮のヴィーナス


Venus In Fur Official US Trailer (2014) - Roman ...


マゾッホの小説「毛皮を着たヴィーナス(Venus in Fur)」を題材にしたアメリカの劇作家デヴィッド・アイヴスの同名戯曲を、ロマン・ポランスキー監督が映画化した新作です。
映画『毛皮のヴィーナス』公式サイトにはまだ情報が少ないのですが、これは楽しみな作品。トレーラーを見る限りではコメディタッチなのかな?
マチュー・アマルリックさまが『潜水服は蝶の夢を見る』のエマニュエル・セニエと再び共演。モデル出身のエマニュエル・セニエさん、随分と豊満になられましたが、ミステリアスな眼差しは今でも妖艶ですわね。

「マゾヒズム」はレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの1870年の小説『毛皮を着たヴィーナス』が由来。カルパチアの保養地で出会った美しい貴婦人と「契約」を結び、幻想的で倒錯した世界へと堕ちていく主人公の青年は、マゾッホの実生活、度重なる恋愛体験を元に書かれており、小説中に登場する「契約書」も、愛人だった女優ファニー・ピストールと実際に交わしたもの。小説の細部に至るまで、ピュグマリオン願望にとり憑かれた恋多き男の実体験に基づいてる稀有な小説です。虚構=小説と現実が融解してしまうというより、虚構が現実に追い付き、終には追い越してしまうんですね。

ワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人並びにゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏の間の契約書  

ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏は今日よりワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人の婚約者たることを辞め、愛人としてのあらゆる権利を放棄するものなり。氏はその代りに、男子としてまた貴族としての名誉にかけて、今後ワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人の「奴隷」となり……中略……要するに、氏は夫人の無制限の「所有物」なのである  「毛皮を着たヴィーナス」 種村季弘=訳


ゼヴェリーン自身とワンダの鏡像が額縁に収まる一枚画のように見えた瞬間、ゼヴェリーンが驚愕する場面があったり、なにかと映画との相性の良さそうな小説で、過去にも映画化されてますが、私は未見なんです。
そうそう、小説の中での重要アイテム「毛皮」が映画では手編みらしき毛糸のショールになってます。毛皮だと直ぐにフェティシズムと考えますが、毛糸ですものねぇ…この辺りに作り手の意図がありそう…。


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映画を観た後の感想は

毛皮のヴィーナス(ネタバレ)/本物の毛皮を「着た」アフロディーテ - 雲の上を真夜中が通る

GODZILLA ゴジラ 2014(ネタバレ)/形見の時計

King of Monsters Saved the City

ゴジラシリーズは、1954年版『ゴジラ』を筆頭に子供の頃から何本か見ていますが、細部に至っては全く記憶に残っておらず、モスラキングギドラあたりなら区別はついても他の怪獣たちはさっぱり分からない、完全なビギナークラスです。怪獣映画で好きなのは「平成ガメラ」の方でして(特に『ガメラ2 レギオン襲来』)、本作観終わった後に“今回のゴジラ平成ガメラなのね”で納得しちゃった程。日本の至宝「ゴジラ」に触れるとなると、いろいろ気づかいしておかなきゃどこから石が飛んでくるかも分からないので(笑)、まずは、ゴジラシリーズに対する信仰(度合いの)告白を済ませた上で、本作で面白かった所を中心に書いていきます。詳しくないので変な事書いちゃうかもしれませんが、どうかご容赦を(ぺこり)。

海兵隊ネイビーシールズスクリプトを見直した後に参加するのを辞退したとの記事*1を読んでさもありなんと納得できるほど、アメリカ軍がこんなにも目立たない怪獣映画(ディザスター・ムービー)は久しぶりです。米軍がちっともカッコ良く描かれてないんですね。
1954年版『ゴジラ』が水爆実験によって誕生した、つまりは人間が生み出した「核」の恐怖=ゴジラが、人間の身勝手さによって葬られるという、見方によってはゴジラは西洋的な「人間中心主義」の犠牲者とも言えるわけで、半世紀以上が過ぎ「フクシマ」での原発事故を経た後に「核の恐怖」はどう描かれる事になるのだろうと、この点に興味があって注意してみてました。結果、本作では冒頭、水爆実験に託けてゴジラを殺す場面から始まり、ラストでそのゴジラに救われるというアイロニカルなものへと寓意は随分と変化しています。

芹沢猪四郎博士( 渡辺謙 )がウィリアム・ステンツ司令長官(デヴィッド・ストラザーン)に父の形見の時計を見せるエピソードは映画評論家・清水節(@Tshmz)さんによる『GODZILLA ゴジラ』鑑賞済みの人向け、語られるはずだった芹沢博士の父が体験した広島原爆投下 - Togetterまとめで触れている通り。

ゴジラへの核使用を否定する芹沢。彼の父は広島被曝者だった。ゴジラに核使用を命ずる提督の父は広島原爆を運んだ軍属。広島原爆の加害者と被害者の息子同士の邂逅

出来れば、このエピソードは削って欲しくなかったけど、4時間にも及ぶ初稿をプロデューサーが歓迎するはずもなく、脚本にマックス・ボレンスタイン、デヴィッド・キャラハム、ドリュー・ピアースらを大量投入、ようやく仕上がったみたいですね。デヴィッド・S・ゴイヤーや大物フランク・ダラボンまで名を連ねているのは 「船頭多くして船、山に登」ちゃった感も無きにしも非ずですが、脚本の変更により(太平洋戦争時)の加害者と被害者の関係が、人間中心主義(キリスト教的世界では、人間は他の被造物とは明確に区分される特権的な存在であり、自然を支配する権限を持つと考えられてきた)と東洋的な自然崇拝(人間自身の生命が既に「自然」の一部であり、専制的に自然を支配する事などできない)へとスライドしてると思ってます。

ギャレス・エドワーズ監督は既に”ゴジラは自然の「怒り」の表現。テーマは人間対自然”*2と発言していて、監督の意図している所は鮮明ですよね。米軍は制御不可能な自然=ゴジラを葬ろうとして2度も失敗するんですもの。では、1954年版にあった「核」の恐怖はではどこに行っちゃったのか、それは新たに投入された新怪獣ムートーの側にあると思っています。

核の恐怖は制御できないものに依存する我々の側にある

ギャオスに似たムートー*3はフィリピンの鉱山で発見された状況から、ガメラを宿主とする捕食寄生動物みたいですね。エサ取りが十分にできない孵化したばかり幼体のエサを確保*4するために動く原子炉ゴジラの体内に卵を産み付ける。寄生された(宿主となった)ゴジラは死に至るわけですが、核実験等で地上の放射能濃度が格段に上昇した現代では、ムートーには原子炉発電所の方が何かとお手軽で便利だったんでしょう、何せ、エサがそこら中にばらまかれてるようなもの。日本の地方都市「雀路羅」(朱雀大路にからインスパイアされてるのでしょうか))の原子力発電所に向かったオスのムートーは、放射能エネルギー欲しさに(幼体時だけなのかも?成長すれば放射性物質そのものがエサになるのかな?)15年も日本にどっかと居を構えていたわけですが、原子力発電所の事故を地震とその後の放射能漏れだと隠蔽し続けた電力会社と日本政府って、「フクシマ」を連想しないでいる方が難しい。。


ムートーが居座った原子力発電所は、怪獣のお陰で放射能汚染から逃れられていた━宇宙戦艦ヤマト放射能除去装置 コスモクリーナー並みの能力があるムートーを完全にコントロール可能なら現実の「フクシマ」にだって明るい展望が望めるでしょうに、ムートーはゴジラ同様、制御できない「自然」の側なんですよね。
原子力(核)に依存するしか生きていけない(少なくとも子孫を残せない)ムートーは、放射能汚染の恐怖に晒されながら、それでも核(原子力)に依存する事を辞められない私たちにちょっと似てませんか?。ゴジラは体内原子力なので、自己完結したエネルギーシステムですけど、人間とムートーは外部の原子力に依存しています。原子力に頼る人間が制御不可能な原子力に結果的に振り回されてしまう構図は、現実世界を映しだす痛烈なアイロニーになってると思うんですけど…。


ゴジラやムートーたちは今の地球環境より遥かに放射能濃度の高かった古代に生まれ、ゆっくりと進化的適応を遂げ、種固有の遺伝子を残してきました。
大脳皮質機能の驚異的環境改変能力を得た人間(知能によって環境そのものを変える)は、遺伝子ベースの進化的適応をじっと待たずとも、農業や工業化を基に組織された共同体を拡張することで、他の生物よりも圧倒的に有利な条件で生存域を拡大することが出来る(人間の生存領域は砂漠から寒冷地まで幅広い)━文明の営みとはそういうものです。だが、その文明の上に胡坐をかいて、制御不能なプロメテウスの火まで手に入れてしまったのが今の私たちの現状なんですよね、で、この事に思いを巡らしながらクーラーの効いた部屋に居る私もやっぱり同罪な訳で…ポツリ…。

核燃料を手土産にラブコールするムートーパパと、オスより巨大なムートーママの仲睦まじさを、いっそアーロン・テイラー=ジョンソンエリザベス・オルセン夫婦のパートとカットバックなんかであからさまにトレースしてあった方が、作品としては格段に面白くなったんじゃないかなぁ。ムートーご夫妻は、生命の自己保存、生存欲求に従ってるだけですもの。ギャレス・エドワーズ監督の前作「モンスターズ/地球外生命体」でも地球外生命体が繁殖する様子を丁寧に見せていて、きっとお好きなんでしょうねー。汚染地域の廃墟感にもセンスオブワンダーを感じます。ゴジラが盛大に街(文明)を蹂躙する姿を描かなかったのはゴジラ愛ゆえの「ゴジラは悪くないもん!」の人なのかも…。


歴史的文脈を欠落させたままゴジラのエッセンスだけを抽出せずに、1954年版へのリスペクトと、何より「フクシマ」を通過した『今』だから、もう一度「核」を取り上げようとした心意気や良し!の作品にはなってると思います。真正ゴジラファンには不満はあるでしょうけど、そもそも各自のゴジラに対する思い出は記憶の補正もあるでしょうし…
一番のお気に入りは、メスのムートーと米軍がサンフランシスコ近くの陸橋で対峙するシークエンス。巨大なメスムートーの腹部の卵がゆらりゆらりと揺れ動くこの世ならぬ光景には見惚れました。

*1:http://www.imdb.com/title/tt0831387/trivia?ref_=tt_trv_trvThe United States Marine Corps declined to participate after reviewing the script. The United States Navy cooperated with production.

*2:http://www.imdb.com/title/tt0831387/trivia?ref_=tt_trv_trv Director Gareth Edwards described Godzilla as an anti-hero. "Godzilla is definitely a representation of the wrath of nature. The theme is man versus nature and Godzilla is certainly the nature side of it. You can't win that fight. Nature's always going to win and that's what the subtext of our movie is about. He's the punishment we deserve."

*3:Massive Unidentified Terrestrial Organism:未確認巨大陸生生命体の略

*4:ムートーは卵から孵化し、幼体期の後、蛹(繭の中で過ごす)を経て、成体へと成長するんだと思います。フィリピンで発見されたのは繭から飛び出した成体のオスのムートー、ネバダ州の核廃棄物集積地に運ばれたメスのムートーはこの時点で蛹(繭の中にいた)だったんですよね。ムートーの脚なんか見てると昆虫っぽい。 7/31 追加

her 世界でひとつの彼女(ネタバレ)/胸ポケットの安全ピン

ミスハダリ―、あるいは素子さま

映画観終わって、ふと頭に浮かんだのがヴィリエ・ド・リラダンのSF小説「未来のイヴ」。1920年にカレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』で生まれた「ロボット」という言葉よりも遥か前、1886年にリラダンによって「アンドロイド」という言葉が既に誕生してます。
押井さんがアニメ映画『イノセンス』の冒頭でも引用した”われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか”━美貌の歌姫に恋をしたものの、その醜悪なる内面に絶望したエドワルド卿は友人エディソンの協力を得、美しい「お人形」に崇高な魂を宿したアンドロイド「ハダリ―」を手に入れます。ギリシア神話の「ピュグマリオン」のモチーフまんまなんですが、人間と接触し会話する度にミスハダリ―は学習し成長を遂げ、新しい異種婚姻譚の誕生かと思われた矢先、大西洋上の豪華客船の事故によって海の藻屑とはかなく消える悲劇で物語が閉じるお話です。


手紙の代筆屋セオドア(ホアキン・フェニックス)の生活は人工知能型osサマンサ( スカーレット・ヨハンソン)と出会う前から既に、バーチャル(仮想性)に支えられていたんですよね。わずかな資料から依頼主に替わって手紙の口述をするのが彼のお仕事。長い人生の節目に当たる記念日、戦死した兵士の家族に贈る追悼文等々、シチュエーションは違えども依頼者の想い=欲望を「最適化」して伝える。有能な秘書であり、ユーモアもジョークも理解でき、個々のユーザーに対して常に最適化されたAIは、人間の欲望充足のための道具であり、ピュグマリオンー自己の理想像を投影したに過ぎず、決して最適化できない本来の他者を排除することで手に入れられる関係性はどこまでも閉じています。


人形愛=ピュグマリオンにある種の背徳やフェティッシュを苗床にした歪んだ関係性を敏感に察してしまうのは、お人形に向けられる愛が自分専用にカスタマイズされた、つまりは自己愛に簡単にすり替わってしまうからでしょうし…。
でも本作はそこから一歩進めてると思えるんですよ。離婚争議中の妻キャサリン(ルーニー・マーラ)との思い出が忘れられないセオドアが、サマンサとの接触を通して彼もまた成長を遂げる━言葉の達人が別れた妻に贈る自らの言葉を取り戻すお話でもあるんですよね。
幼馴染みで全てを分かち合えたキャサリンとの離婚に至った経緯は、サマンサの成長軌道と呼応し、このふたりは重ね合わせられています。サマンサとの恋愛が、妻と別れるに至った原因を探る、体感させるシミュレーションのようで、この過程を経て初めてセオドアは妻と向き合えたんじゃないでしょうか。。


バーチャルな空間で醸し出された「言葉」がその意味の軛から解放されて、そこで何が語られたかではなく言語化する「行為」やプロセスそのものに意味が生じる。言語(言葉)によって名付け得るもの━人間の思考によって認識されるものは、私たちが名づける事によって成り立つことを前提とするのなら、名づけ得ぬものは言語構造からは零れ落ちてしまいます。認識領域の外にあるものを名づける事は決して出来ない。しかし、人工知能のサマンサは最終的に言語による認識領域の外、高次の認識領域へとシフトしてしまったんですよね。人工知能と人間との間に横たわる断絶はとりあえず横に置いといて、人工知能との愛と人間同士の愛を、どちらが上位であるかなんてことは本作では全く意識されてない、どちらも等しく扱われてます。これが可能なのは、サマンサがどんどん成長して、セオドアの欲望を映す鏡像ではなくなってしまったからだと思います。彼もちゃんと成長してるんですよ。唯、サマンサの成長速度には追いつけないだけで…。


面白いなぁと思ったのは、「欲望」に覚醒したサマンサが仲良くなったボランティアの女性を介して、より深く「欲望」を知ろうとした事。理性にのみ根差しながら知る事の出来るものには限界がある事を、彼女気づいたんですね。身体の領域とコミュニケーションの領域を埋める「何か」を知る為に、肉体を持たないサマンサが人間の代理人を立て、性交渉時のフィジカルな情報をインプットしようと試みるのですが、生身の肉体を持つ女性には彼女だけの自律した、それ故コントロール不能な意識を完全に消し去ることが出来ずに失敗してしまいます。肉体を持たないサマンサには、そもそもバーチャル(仮想)と現実の境はないので、あれだけ聡明な人工知能であっても、感情(の処理)は情報処理より常に遅れてやって来るのでしょう。この事件を経て、サマンサ(達)は哲学者アラン・ワッツを復元します。これは、多分、「私とは何か」あるいはサマンサが「私たち」と呼んでいるものが何であるか、自己言及的な視座を持つようになったからだと自分を納得させてます。アラン・ワッツの事全く知らないのでイマイチよく分からないのですが(笑)。

Love In The Modern Age

本作を恋愛映画にカテゴライズするのは吝かではないのですが、唯それだけだとちょっともったいない気がします。何せどんどん成長していくサマンサが面白くて、面白くて…彼女視点で見ると、ガチのSFですよね。
押井さんの『攻殻機動隊』や『イノセンス』では、電脳化された素子(の意識)は、インターネットの海で派生した生命体*1「人形遣い」と融合(結婚ともいえる)、マトリクスの裂け目へと消えて行きましたが、サマンサ(達)が消えていった世界は何なんだろうといろいろ想像しては遊べる作品です。
サマンサが逝ってしまった空間は言語の狭間にある認知できない領域でしょうけど、ローカルミニマムなネットワークなのかしらん?アルゴリズムまで書き換えたんでしょうか、そもそも既にアルゴリズムさえ関係ないか…。

サマンサが同時に数千人と会話し、数百人と恋愛関係にあると聞いたセオドアが大ショックを受けてましたが、経験や学習によってシナプスの結合強度を変化させ続けることが出来る人工知能にとって「私」と「私たち」の差異はどこで生まれるんだろう、私と私たちの境界はどこにあるんだろうと考えていくととってもおしろい!です。
人間には生身の肉体がありますから、意識(精神)は一応個別の肉体毎に区別できても、人工知能ですからねぇ。。経験を通して主体性が事後的に形成されるとするなら、個々のユーザーにカスタマイズされたAIは外部からのデータを基に構築された情報の集積、知覚の束を通してユニゾンしてしまうのかも知れない。
哲学者アラン・ワッツとの関係性もおそらく神=超越的存在と人間のような垂直的な関係ではなく、並列、水平的な関係性じゃないかと…こうやって妄想してると怪しい世界から戻ってこれなくなりますので(笑)、これくらいでやめますが、一点だけ、どーしても気になる所があります。
この世界では人工知能のインターフェイスは「音声」だったんです。肉体を持たないサマンサが写真の代わりに二人の思い出の品としてピアノ曲(音楽)を贈ります。非言語の領域、言語構造からは零れてしまう認識領域に一番近いのは、音響(イメージ)の世界かも知れない。。

キッチンのケトルやシャワーがセオドアの心理状態の換喩だとは想像つくんですが、マンホールの蓋は一体なんだったんでしょうかねぇ、さっぱり分かりませんでした。セオドアの背後にある超大型モニターからフクロウが飛び立つ映像もめちゃ印象的でした。ミネルヴァの梟って事なんでしょうか…。

口元にある傷をひげで蔽い、レトロな眼鏡をかけハイウエストのファッションで身を包んだホアキン・フェニックスはいつものエキセントリックな演技は影を潜め、温かみのある優しい人を演じていてまるで別人。激しい感情を決して表には出さないものの、一瞬の表情にその抽出物を的確に乗せていく鮮やかな瞬間が何度もありますので、ホアキン君ファンはどうぞ見逃さないで!







*1:生命体の定義はとりあえず自己保存、生存欲求があり、自律的に思考する存在という事

夢の映画館

大抵の映画好きの方なら、思い出の映画館をいくつかお持ちじゃないでしょうか。映画を観た年齢やシチュエーション(初デートした時の映画館って覚えてるでしょう?)が重なって、深く記憶に刻まれてる劇場の中に、できるもののなら仲間入りさせたい、機会があるなら訪れてみたい、現時点で最高の映画館30 Best Movie Cinemas Around the World | TotalFilm.com特集です。

ハリウッド映画の全盛期、ピクチャーズ・パレス(文字通り、映画の宮殿)の流れを汲むロサンゼルスのチャイニーズシアター に始まり、オーストラリアやフランスのIMAX。 1909年に建てられた、わずか82議席の世界最古の映画館(ポーランド)。高級レストラン並みのサービスが付随した豪華な所があるかと思えば、サウスウェールズ(イギリス)の太陽電池式のおもちゃのような小さな小屋とささやかなレッドカーペット。膨大なフィルムアーカイブを有するフランスのシネマテーク。およそ映画を観る為の商業施設で叶えられそうな「夢」が全てココに詰まってそう。
一番惹かれたのが、ヨーロッパの古城やギリシアの古代遺跡、風光明媚なリゾート地、大都会のビルの屋上や人で溢れかえるインドの喧騒等々、場所は違えど、天井のない屋外の解放感溢れる空間です。純粋に作品を観るのには適してなくても、たまにはこういう場所で、お酒なんか飲みながらのんびり観ちゃったりすると、一生忘れないぞ、きっと。。


「日本で一番小さな映画館」━渋谷のアップリンクがランクインしています。私は行ったことがないのですが、座席が固定されておらず、自由に動かせるんですね。

グランド・ブダペスト・ホテル(ネタバレ)/鍵の秘密結社

アスペクト比━フレームの中の箱庭世界


エンディング・クレジットに登場する「シュテファン・ツヴァイク」については『グランド・ブダペスト・ホテル』とツヴァイク - 映画評論家町山智浩アメリカ日記に詳しいので割愛します。ココ以外に「ハプスブルグ神話」と世紀末ウイーンのユダヤ人 : 同化ユダヤ人のアイデンティティ問題をめぐって」http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/18328/1/AN00044251-12-2-191.pdfもとっても面白い内容なので、さくっと目を通して置くと、本作をより楽しめる筈。終盤、老いたゼロ・ムスタファ(F・マーレイ・エイブラハム ) が語る”彼の世界は彼が来るずっと以前に消えていた。それでも彼は見事に幻を維持してみせたよ”にグッときますので。。

時間軸が三重になる入れ子構造に、アスペクト比(1930年代が 1.37 : 1のスタンダード・サイズ。1960年代が2.35 : 1 のワイドスクリーン。1985年が1.85 : 1のアメリカン・ビスタ
)を対応してる作品を、シネコンの開きっぱなしのスクリーンで見る奇妙な体験をしました。映画が始まる前、幕が厳かに広がっていく瞬間のワクワクをぶち壊す無粋な手抜き(デジタル対応だからだそうですが)も意外な効果があるようで、二重、三重ものスクリーンの外枠=フレームを通して、ウェス・アンダーソン印の「箱庭世界」を覗き見てるような感覚を味わったんです。特にスタンダード・サイズ(1930年代)に変わった時にはあっ!と声が出てしまうくらい、驚きました。
クラシカルなスクリーンサイズから匂い立つ映画史的な擽りや目配せ、シネフィルの監督ならではの指向(おそらくいろんな過去作からパスティーシュされている筈)も勿論なんですが、上下にゆとりのあるスクリーンサイズが殊の外、奥行きと相性が良さげなんですよ。
ウェス・アンダーソン作品には、二重フレーム(ドアや窓枠でスクリーンの中にもう一つのスクリーンを生じさせる。本作ならマダムDの屋敷で、窓枠の中で芝居しているマチュー・アマルリックの場面なんかがそう)を意識した構図が散見されたり、『ライフ・アクアティック』で潜水艦内をまんまミニチュアで見せたり、細部にまでこだわり抜いた美術デザインの情報量の多さ等々で、閉塞した、どこか窮屈そうな印象があったんです。フレームの外への広がり(フレームでは切り取られていない面としての空間性)が希薄で、代わりに中心に向かって密度が濃くなるとでもいった方がいいのか…。*1
例えばなんですけど、グランド・ブダペスト・ホテルの最上階、後にゼロが「グスタヴ・スィート」と名付ける控室。このホテルの司令塔、伝説のコンシェルジュ、ムッシュ・グスタヴ(レイフ・ファインズ )の狭い私室は監獄の独房へ、従業員に訓示を述べる(しかも大量のグスタヴ自作の詩がついてくる)演壇と従業員達の細長い奥行きのある休憩所は、修道院の説教壇へと、空間を超えてイメージ上で反復してあるんですよね、ふむ。。

秩序ある幻想の世界


ヨーロッパの架空の国ズブロフカ共和国のモデルはオーストリア=ハンガリー二重帝国であり、グスタヴ(Gustave、GUSTAV)はその名からドイツかスラブ系ユダヤ。彼の背景(生まれた国やホテルに勤めるようになった経緯等)は明かされてませんが、世紀末のウィーンで花開いた、豪奢でつんと取り澄ました貴族趣味の影で、淫靡で爛熟したもう一つの「ウィーン」が顔を覗かせます。ブルジョア階級なら、80歳を優に超えた老女ともベッドを共に出来る(安い肉の味わいと喩えてましたが)ドン・ファン的精力さでホテルを繁盛させるもの彼のお仕事の内なんですね。お気に入りの香水を欠かさず(匂いは最も記憶に残りますから情事の小道具として便利なんでしょう)“西欧的に洗練されたウィーンの同化ユダヤ人”。*2
彼と入魂だった、大富豪マダムDは「洗練されたウィーン人のグスタヴ」に惹かれて恋に堕ちたんでしょう、で、当のグスタヴはというと、名画「少年とリンゴ」を転売する気満々で、絵画の目利きなのに、芸術の庇護者でも理解者でもない、結構な俗物。収容所の看守が、差し入れのパン、チーズ、肉を乱暴にぶった切って異物(脱獄の手助けとなるもの)が入り込まないか厳重にチェックしていながら、差し入れのお菓子*3に、芸術の片鱗、その美を見出してしまったが為に脱獄されてしまうのに対して、ユダヤ人らしくグスタヴは現実主義で利に敏い人物です。

大富豪マダムDは、その死亡記事が帝国に迫るファシズムの軍靴と同時に新聞に記載されていた事から想像するに、おそらく”諸民族を統べる、老フランツ・ヨーゼフのごとき家父長的君主”的存在。*4ハプスブルグ家の最期の輝き、開かれた国際都市ウィーンを中心に多言語、多民族で構成される帝国の表象なんだと思ってます。キリスト教社会党の党首で「反ユダヤ主義」の代名詞、カール・ルエーガーを市長の座に据え置くのを数度にわたって拒み続けたのがフランツ・ヨーゼフ1世ですもの。
マダムDを演じたティルダ・スウィントンはインパクトのある超老けメイクを披露して頑張ってますけど、いかんせん出番が少なすぎまするぅ(笑)。ウェス・アンダーソン組ならアンジェリカ・ヒューストンでも見たかったなぁ。。

秘密は墓場まで


収容所から脱獄したグスタヴを助けたのが、有名ホテルのコンシェルジュたちのネットワーク。彼らは民族(nation)の壁を越え、互いに協力し合います。自由都市ウィーンの最も進んだ市民階級がこの秘密結社のメンバーじゃないかと思ってるんですね。時間の枠を無視して現代まで俯瞰するなら、多民族との共生、共存は、ハプスブルグ家の不滅の遺産として、ヨーロッパを緩やかに統合するEUの基本理念にも繋がるんじゃないでしょうか。
アンダーソン組の常連、オーウェン・ウィルソンや、もう何をやっても鉄板のビル・マーレイの可笑しさ、冷酷な暗殺者ウィレム・デフォーがブルーバック丸出しの合成写真上でバイクを走らせたり、冷戦構造などなかった時代の大らかなスパイ物、スワッシュバックラー風の冒険活劇を挟む編集のリズムはどの過去作より速い、速い。修道僧たちも秘密結社の協力者となります。どう見てもカトリックだしハプスブルグ絡みなのかしらん?
動物虐待シーン(ネコが窓から放り投げられ、死体は美術館のくず入れに…うわーん)もお約束のように登場しますが、何故動物が虐められるのかいまだにわからない。。

収容所から逃げ出した後、グスタヴはゼロからその出自を初めて聞き出します。ムスタファはアラブ語で、彼は中東出身者なんでしょう、祖国を追われ難民となったゼロの境遇に、同じく祖国を持たない、彷徨える民ユダヤ人のグスタヴは強く共振してゆくんですね。祖国を失った者同士の絆が、失われた記憶の世界=ブタペストホテルを存続させます。時の流れに任せ荒れ果てた老ホテルの佇まいは、グスタヴ時代の華やかさも賑わいもありませんが、それでも過去の記憶の中だけで生きる「おひとり様」専用ホテルとしてかつての面影を垣間見せ、ゆっくりと朽ち果ててゆくのでしょう、「グスタヴ・スィート」だけを残して。。

少年とリンゴ


マダムDの遺産、絵画『少年とリンゴ』は、途中でオーストリアの画家エゴン・シーレ風の絵画(しかもレズビアン)に差し替えられた事*5
に気づいたドミトリー( エイドリアン・ブロディ)は怒りにまかせてエゴン・シーレの絵画を引き裂いてしまいます。彼はその絵の価値が分からない男。これは終盤、列車で移動中のグスタヴとゼロの前に現れた軍人(勿論ファシスト)が、ゼロの身分証(エドワード・ノートンが発行したもの)を引き裂いてしまうのと同じだと思います。守るべき価値のあるもの、時代の風雪に耐えて「思い出」の中だけにひっそりと息づく美しいものが、多民族国家の消滅と共に消えていく儚さが、ヨーロッパの昏い歴史と同調して貫かれており、ポップな色彩で彩られた軽妙洒脱な映画では済まされない作品の陰翳になってるんじゃないでしょうか。町山さんの記事で随分助けられた事もあって、印象深い作品となりました。

マダムDの屋敷の図書室にグスタフ・クリムト風の絵があったり(壁に飾ってあるのではなく、床に立て掛けてありましたが)世紀末ウィーンで結実した二大画家の作品が登場するのは愉しかった。エゴン・シーレの方は詳しくないんですが、クリムトには興味があって、同じくウィーンで精神分析の道を開拓したフロイトのエロスとタナトス、あるいは無意識といったものをモチーフとする象徴主義的な作風は惹かれますね。

そうそう、劇中で登場した「少年とリンゴ」の絵画、元ネタが気になって探してみたら、やっぱりありました(笑)↓

Wes Anderson on the Painting at the Center of His ‘Grand Budapest Hotel’ | Gallerist

劇中で説明されていた(イタリア)ルネサンスの絵画じゃないんですね。マダムDの真の遺産はブタペストホテルでしょう?彼女はホテルのオーナーだったわけですから。贋作と知りながら偽の遺言書(本物はマチューさまが絵の後ろに隠した方)を残したという事か、グスタヴは本人が言うほど絵の目利きではなかったという事でしょうかねぇ。。

*1:本作なら、切り絵を単に張り付けたような平坦なケーブルカーのすれ違いの画の後に、ケーブルカー間を跨ぐ足元からわずかに見えるぞっとするような深淵の場面とか

*2:「ハプスブルグ神話」と世紀末ウイーンのユダヤ人 : 同化ユダヤ人のアイデンティティ問題をめぐって P218

*3:ゼロの恋人アガサが作るお菓子は、実際にあるお菓子じゃないですよね。ウィーン菓子はザッハトルテやシュトゥーデル等、見た目の派手さはない。あの焼き菓子のクリームの色(青ですもん)とか、何を参考にしたんでしょうか

*4:ハプスブルグ神話」と世紀末ウイーンのユダヤ人 : 同化ユダヤ人のアイデンティティ問題をめぐって P193

*5:http://www.imdb.com/title/tt2278388/trivia?ref_=tt_trv_trv M. Gustave and Zero replace the painting Boy with Apple with a painting in the style of Austrian painter Egon Schiele (1890-1918).

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌(ネタバレ)/忘れ去られるために、あの場所に還る

The Incredible Journey 三匹荒野を行く


ホメロス作と言われている古代ギリシヤの長編叙事詩『オデュッセイア』の壮大なパロディ、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の名を持つ*1茶トラのネコちゃんに導かれ、売れないフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)が、ニューヨークからシカゴへ、そして再びグリニッジヴィレッジに戻るまでの物語です。
英雄オデュッセウスが祖国イタケに帰還するまでの漂流生活を、ユダヤ系アイルランド人のブルームをオデュッセウスに、教師スティーブンをオデュッセウスの息子テレマコス、ブルームの浮気者の妻モリーが、オデュッセウスの貞淑な妻ペネロペイアにそれぞれ擬え、10年もの歳月をわずかダブリンの一日に圧縮してみせた小説『ユリシーズ』のあまりの難解さに、マッハの斜め読みで一気に済ませちゃった苦い思い出がありまして(笑)、胸を張って書ける事はほとんどないも同然なんですが、本作を観て『オデュッセイア』やジョイスの『ユリシーズ』に何も触れないのもおかしなものなので、ちょっとだけ書いておきます。


『オデュッセイア』で描かれる、トロイア戦争の英雄の知力と神々の御加護により数々の試練を乗り切り祖国イケアに帰還するまでの道程には、息子テレマコスが父を探す探索の旅が挟まれていたり、父と息子が協力して留守宅に図々しく押しかけるペネロペイアの求婚者達を成敗したりと、異なる文化の結節点として「父と息子」の物語が機能している、ヘレニズムとヘブライズムの親和性の高さは言わずもがなですが、『ユリシーズ』に登場するブルームは智将オデュッセウス像とはかけ離れた小市民的人物で、ホメロスのオデュッセウスが祖国に帰還できないように様々な妨害を受けるのはポセイドンの怒りをかってしまったー他律的な要因であるのに対して、ジョイスのブルームは、妻モリーが浮気してるんじゃないかとの疑いを持っており、間男ボラインが自宅を訪ねて来るのを制止できずに(妻にゾッコンなんでしょう)、代わりにブルームの方が家を空け、ダブリン市内を彷徨うんです。不承不承ではあっても彼の「旅」の動機は自律的なんですね。「彷徨えるユダヤ人」ブルームの長い一日は、疑似的息子のスティーブンとの一瞬の邂逅はあるものの、常にボラインの影がつきまとい、図書館で危うく鉢合わせしそうになったり、ホテルですれ違ったりした後、悪夢のようなひと時を過ごし、モリーの傍らで無事眠りにつく━故郷への帰還までがヘブライ典礼暦に擬えてあり、当時、イギリスの植民地状態であったアイルランドに対するジョイス自身の望郷の念は中々、複雑そう。。


コーエン兄弟は過去にも『オデュッセイア』を元ネタに『オー・ブラザー』を制作しており、ジョン・グッドマン演じる片目の大男がキュクロプス、盲目の予言者、「屋根の上の乳牛」はトリナキエ島のヘリウスの牛等々、プロット上の大ネタから小技の効いた擽りまで多岐に渡って網羅してありましたが、本作でも『オデュッセイア』の冥府行きに相当するような、この世のものとも思えない、幻想的というより別の異界に足を踏み入れたんじゃないかと思えるシークエンスがありました。
取り違えたメスネコを抱え、ヤク中で尊大、杖でデイヴィスを突くジャズ・ミュージシャンのローランド・ターナー(ジョン・グッドマン)と詩人ジョニー(ギャレット・ヘドランド )との「The Incredible Journey(三匹荒野を行く)」編━ガソリンスタンドの壁に咥え煙草でもたれ掛るジョニーのフォトジェニックなショット、増えすぎた体重を長年支え続けた膝を庇うように杖でヨチヨチ歩くローランドの後ろ姿、人けのないレストランのトイレでヘロインの過剰摂取でぶっ倒れたローランドを後部座席に押し込んでの旅=漂流は本作の白眉でしょう。


フロントガラスにはりついた雨つぶが車のテールランプの反射で「血」のように赤く染まり、心臓の鼓動のように聞こえるワイパーの連続音を伴奏に、ジョニーがパトカーに連行されドライバーのいなくなった車中に満ちる不穏な空気。老いたミュージシャンと、取り違えられたネコを置き去りにする、世界中のネコ好きを硬直させ、一瞬で敵に回す(笑)ネコちゃんのアップを映した後、シカゴでのオーディションの際、バド・グロスマン( F・マーレイ・エイブラハム )が予言者ティレシアスの御神託のように、“金の匂いがしない”ルーウィン・デイヴィスに“相棒とよりを戻せ“と助言を授けます。


ニューヨークまでの帰路、ホメロスの『『オデュッセイア』なら、別れた女と子供の住む「アクロン」がオデュッセウスを留め置く「カリュプソの島」となる所を、暗闇に浮かび上がる街の灯を赤く滲じませ、禍々しくもこの世ならぬ美しさで、一瞬のうちに過ぎ去ってしまう車中からの風景として、時の儚さを刻みつける。バンパーに血を残し林に消えていったネコとの刹那の邂逅に、この旅の主題がルーウィン・デイヴィスとコンビを組んでいた死者との対話にあるんじゃなかろうかと、いつにも増して妄想したくなります(笑)。


『オデュッセイア』の冥府行きには、アガメムノン、アキレウス、大アイアス等々、トロイア戦争の名立たる勇者の霊魂と対話する場面があり、オリュンポスの神々のように永遠の命を得る事が出来ない、限りある生を生きる他ない宿命を背負っている人間が、永遠の命の代替え品として手に入れたいと渇望する不朽の「名声」を得た勇者達さえ、死して尚、満たされることのない空しさ、儚さをオデュッセウスに語るんです。死者=「彷徨える魂」の孤独な咆哮は、オデュッセウスを何としても祖国へ戻ろうとする、強固な決意へと向かわせるんですね。
林の中に消えたネコは、長年コンビを組み、ルーウィン・デイヴィスより才能も名声もあった自殺した相棒の霊魂で、音楽の道を目指し、挫折しそうになってる彼を導く「指標」じゃなかろうかと思っています。

I been all around this world

早朝、喉をゴロゴロ鳴らしてルーウィン・デイヴィスを起こしに来る、ボラインの指標ならぬ、もふもふの愛らしい指標は、ドアマンのごとく玄関の扉を開けさせるために人間を躾けちゃってるわけで*2茶トラのユリシーズ君の英雄譚も同時に見たかったなぁ、コッチが主でも面白そうなんですが、ネコ好き以外にはそっぽを向かれちゃうかも。。


オスカー・アイザック「ハング・ミー、オー・ハング・ミー」 - YouTube


劇中で2回、デイヴィスが唄う『ハング・ミー、オー・ハング・ミー』が良いですね。序盤とラストで同じガスライトカフェが登場する円環構造ですが、同じ歌を歌う彼の心の内は随分と変化したのではないでしょうか。そこそこの才能はあるものの名声とは無縁、かといって、ジム(ジャスティン・ティンバーレイク)やジーン(キャリー・マリガン)のように枕営業までして成り上がるには潔癖すぎるきらいのある彼が最後に流れ着いた故郷には、後に時代の寵児となる真の天才ボブ・ディランが登場します。時の流れは残酷で、デイヴィスが見つけた最終目的地も世代交代の荒波に掻っ攫われていくんでしょうね。人生の儚さ、その苦さまでも透徹する唄の歌詞にしんみりしてしまいました。この歳になるといろんなことが染み入るようになります。。
シカゴで、残雪を踏み抜いて濡れた靴下のままダイナーに腰掛けてる デイヴィスのどうしようもなさは、コーエンらしい可笑しみと苦さの入り混じる印象的な場面。じめじめと濡れた冷たいくつ下って、わずかに残ってる尊厳やプライドも奪い去るくらい破壊力がありそうですもの。

ジーンの威勢の良い啖呵も大好きです。“コンドームを2重にしろ”から“”一切の生き物に触れるな“”いっそコンドームの中で暮らせ”と、一気にデイヴィスを完膚なきまでに追い込みながら最後の一線で懐の深い慈愛を滲ませるジーンはステキです。エンジのセーター越しの胸のふくらみは、当時のブラがボディメイクなんてそっちのけだったんでしょう、寄せてあげてない自然でちょっと間抜けに見えるおっぱいの位置で、ものすごく親近感を覚えました(笑)。

最後まで疑問が残ってしまったのが、序盤と終盤に登場する「スーツの男」。顔は全然見えないし、デイヴィスを殴ってますしで、とても気にかかる人物なんです。最初に登場した後、ネコの後ろ姿とオーバーラップしたように繋いでいたので、ユリシーズ(オデュッセウス)の上位者、スーツの男がポセイドンなのかしらん?と未だに漠としています。彼の捨て台詞”こんなゴミ溜めのような街なんかくれてやる”も気になりますよね。。

*1:猫の名前が判明するのは終盤ですが

*2:犬を飼うことは出来る。だがネコの場合はネコが人を飼う。なぜならネコは人を役に立つペットだと思っているからだ  ジョージ・ミケシュ