ハンナ(ネタバレ)/愛しい娘よ、お前はわたしの分身

■世界に触れると音が溢れる、人の触れ合いに音楽が溶け込む

凍てつくフィンランドから「世界」に飛び出したハンナ(シアーシャ・ローナン)。拉致されたCIAの秘密基地内トンネルを血で染め上げ潜り抜けた先は、異郷の地、モロッコでした。そこで初めて耳にしたのは、TVやシーリングファン等、文明が生み出す音の洪水。ハンナの通過儀礼は、まず「音」の洗礼によって始まるんですね。CIAのエージェントであった父(生物学的な意味での父ではなかったことは、後に分かりますが)は、殺人マシーンとして不可欠な技能と多言語の教育(CIAのエージェントらしいです)、百科事典並みの知識をハンナに与えましたが「音楽」だけは遠ざけていました。音楽は本作ではコミュニケーションツールでもあるんじゃないでしょうか。フィンランドでの訓練の最中に“カンカンカン”と鳴り響いていた木製武器の音は、父エリック(エリック・バナ)と奏でる、この二人の間でしか成立しないリズムセッション=コミュニケーション言語のようでしたけど、ロマの一団のシークエンス(ギターの音と共に歌いだす女、それに誘われるかのように人々が踊りだす)スペインで耳にする哀切な調べは、漂流する民に面々と受け継がれている血の刻印。踊りもまたパロール(言語)とは違った意味での言語活動(ランガージュ)ですよね。このシークエンスは素晴らしい。世界を言語でしか分節できなかった少女の前に現れる新世界の、なんと美しいこと。
もう一か所、音楽が印象的だったのが、偶然知り合った家族が合唱していたデビット・ボウイの『KOOKS』の場面。文明と隔絶された地で生ける殺人兵器として教育されてきたハンナとは違って、この家族の姉は情報化社会にどっぷりと浸かった現代の女の子。情報の海で生きていく他ないティーンエイジャーの頭の中はゴシップネタや美容整形、ナンパする男の子の事しかない軽薄そのものに見えるけど、これが難しい年頃の女子のとても切実でリアルな戦い方のように思えるんですね。プラチナブロンドと抜けるような白い肌のハンナの漂白された身体と違って、このお姉ちゃんの登場シーンは大地にデンと仁王立ちになった御姿でした。逞しくて、いいぞ、顔も黒いし(笑)。そんなイマドキの娘をおおらかな愛で包む母親の懐の深さと、ケンブリッジ出身の妻がちょっとばかし自慢の父、まだまだ無邪気な弟がカーラジオに合わせて唄うシーンは、親子の情愛が溢れだす心温まる場面。窃視でしかその世界に触れられないハンナとこの家族の埋めることのできない距離も可哀そうだった。ハンナの母が生きていたら、この家族のように一緒に娘と歌えた(コミュニケートできた)でしょうに…。
ケミカル・ブラザーズが担当している楽曲と映像の相乗効果は、私の耳の悪さと音楽的センスの無さもあって、イマイチよく分かりません。序盤のCIA基地内では、クラブミュージック風(?)の音楽と光と影が縁取る心理的効果で、トンネルという潜在意識やエスを連想しやすい場所にフィットしているように感じられましたけど、後半に至ってはもう何がなんやらさっぱり(爆)。サウンドスケープ・デザインに関心のある監督さんなのでいろいろ考えてあるんだろうなぁとは思いますが、コッチ方面に強い方の解説が是非、聞きたいものです。私は音に関しては保守的なのか、フレームの外から浸蝕してくる音は引き算の方が好みです。テラっとしたスポーツ・ウェアとゲイの表象を身に纏っているアイザックス( ←このセクシュアリティが曲者なんですよね。便宜上、憑依させてるペルソナみたいに思える)の口笛の方がどれだけインパクトがあるか…。間違いなく狂っているのは、この人だもの。

■緑の魔女

殺人兵器を生み出す為の極秘プロジェクトの中心人物であったマリッサ(ケイト・ブランシェット)。このプロジェクト自体が、CIAの上層部によって握り潰された、日の目を見ないうちにひっそりと闇から闇に葬られる「堕胎」された「赤子」ですよね。マリッサがマッド・サイエンティストなら、プロジェクトの最後の生き残りであるハンナに肥大化した母性を投影したってちっともおかしくないんですが、彼女はやはり組織に属する官僚なんだと思います。マリッサのダミーがあっさりハンナによって殺害される場面を一部始終見ていた当の本人(思わずのけぞるくらいショックだったんでしょうが)はその後、金庫に厳重にしまってあった極秘ファイルを燃やしてます。この時の彼女、緑色の手袋してました。マリッサのコンセプトカラーは緑です。全身、緑のグラデーションで固めている。ハンナ抹殺の為に選んだ靴(3・5センチヒールの実用的なモノ。ヒールの付け根の飾りがおしゃれでしたけど)まで緑。ハンナがマリッサにつけたコードネームは“悪い魔女”でしたし。童話に登場する鼻の曲がった意地悪そうなおばあさんではなく、美しい緑の魔女さんです。母性の秘めたる狂気、母なる超自我を端正に体現できる現役の女優さんと言ったらケイト・ブランシェット以外に考えられないくらい、彼女のノーブルな美しさと豊かな声の響きは魅力的ですが、本作あんまりそっちに揺れてくれません。ハンナの祖母を殺害するシーンでも、老女が毅然と示す子を思う母の愛の深さは、我が子をその胸に抱いた事のないマリッサとの落差となってしまうし…。外科医の手術器具並みに揃えられた歯磨き道具一式とその歯磨き風景も、自分の立ち位置と外界との関係性を厳格に規定しそこからはみ出ることに恐怖しているが故の反復脅迫みたいで、狂気が足りない(笑)。ハンナと道中共にしていたアメリカ人家族の弟君をその魔力で誑し込んでハンナの目的地を聞き出す手際はよかったですけど、相手がおチビちゃんじゃ…ね。この家族のその後も分かりませんよね。マリッサが自費で雇った刺客のアイザックスは、拷問大好き人間ですし。あの家族もハンナに無償で宿を提供してくれた優しいおじいさん同様、犠牲になったんでしょうか。。

■森へお帰り

作品舞台は、フィンランドの森→モロッコ→スペインを経て、ベルリン→廃墟の遊園地を包む森へ移動してます。
中世ヨーロッパの童話には森と人間との関係がよく登場しますよね。『赤ずきんちゃん』『ブレーメンの音楽隊』のように狼や盗賊の住む危険な場所であったり、『眠り姫』の100年もの時間を守るのも茨の森、『白雪姫』が危険から逃れ身を隠す、子供達を保護する場所としての森、妖精や精霊のいる神秘の森は日の光が届かない奥所に存在し、村と村の境には通り抜けのできない未知なる森が横たわり『ヘンゼルとグレーテル』のように不思議な出来事を体験する子供たちの通過儀礼としての場所でもありました。童話世界では森の相貌はとても豊かで多義的です。
ハンナが目指したグリムの家は『ヘンゼルとグレーテル』に登場するお菓子の家そっくり。フィンランドの森の奥にあったランプの明かりが灯る小屋が童話に登場しそうな俯瞰ショットでとらえてあった場面がありましたけど、フィンランドの森とベルリンの森は対置されてると思います。エリックとハンナの宣戦布告によって、清算されずにいた過去からの請求書に右往左往したのはマリッサ。彼女はその証拠である極秘ファイル焼却の為に緑の手袋を選択した瞬間からリアル世界の悪女から童話世界の魔女としての立ち位置を運命づけられてしまった、子供が主役となる童話世界の舞台にスライドしてしまったんだと思ってます(←うまく言語化できてないんですけど)。うん?緑の手袋は魔法の手袋?(笑)。
フィンランドの森に棲む野生動物は廃墟の遊園地では張りぼての遊具に変わり、氷の湖にいた白鳥はスワンの首を装飾したボートとなる。コンテナ置き場でのバトルは、守るべきものがいる(アメリカ人旅行者の家族)ハンナにとって不利な状況でしたけど、「森」が舞台ならハンナは冷徹なハンターとしての理性と鍛え上げた戦士の技を取り戻せます。マリッサの運の尽きは真実の発覚を恐れたために自ら森に足を踏み入れてしまったことでしょうね。彼女の表象は、緑の魔女から→童話に登場する狡猾なんだけどどこか抜けた所があって常に裏をかかれてしまう狼へ(『赤ずきんちゃん』のオオカミ)→トンネル内で現れる優美な雌鹿(冒頭の鹿との対比)へと、目まぐるしく変化します。鹿が登場すると『ハリポタ』みたいですが、あっちは守護霊だったのに対して、本作はハンナの主観ですから「獲物」でいいんじゃないかと…。長ーい滑り台を滑落する瞬間、彼女に仕留められる獲物にまで落ちたマリッサの姿は、白眉でした。



デヴッド・ボウイの『KOOKS』に関して、映画×ロケンロー備忘録さんのブログを参考にさせて頂きました、改めて感謝!です。

http://d.hatena.ne.jp/gakus/