裏切りのサーカス(ネタバレ)/ユニオンジャックの下に集う男たちは、愛のために涙する

■帝国の水漏れ船

退職後のジョージ・スマイリー(ゲーリー・オールドマン)が習慣にしていた(運動でもしないと時間を持て余してしまうのでしょうか)水泳の後、スマイリーが向きを変えたタイミングと、入院中のコントロール(ジョン・ハート)の点滴容器(この時代はガラス製だったんですね)がガチャンと割れる音を同調させ、その後に病院内のコントロールの映像に繋げる編集の鮮やかさは、鳥肌ものでした。もぐらの計略(司令塔は鉄のカーテンの向こうに鎮座するカーラですけど)に嵌められ不名誉な退職に追い込まれたコントロールの最期をスマイリーがこの時点で知る由はなくても、何かの異変を感じて頭をめぐらしたんじゃないかと妄想したくなる(笑)。オカルトやスーパーナチュラル寄りは大の苦手で、リアル世界でそういう話題を振られると逃げ出したくなるくらいなのに、本作なら許せます。スマイリーのキャラが頭脳明晰で冷静沈着だからなんでしょうね。イギリス情報部のトップに潜り込んだ裏切り者を炙り出す任務は、膨大な資料を漁り、関係者の証言から針の孔程の矛盾を見つけていく地味な捜査の繰り返しで、コントロールと一緒に体よく組織を追われ「部外者」となったスマイリーを引っ張り出したレイコンにしてみれば、この捜査が不手際に終わっても彼自身の腹は余り痛まない。政界を巧みに泳ぎ渡ってきた高級官僚ならではの言質や弱みを握らせない巧緻さと、それを嘆こうにも、レイコンのセリフにあった通り、コントロールとスマイリー両名の「彼らの時代」の置き土産であるには違いないんですもの。
有刺鉄線と鉄柵に囲まれた英国情報部本部には、最上階(5Fだったかな?)に「サーカス」の一室が設けられてます。情報部の中枢が、カーラの手によって、堅牢な建造物の内側に巣食う癌細胞へと変貌してしまったんですよね。外部からの視線を遮断する閉塞した空間に入り込む異物(腐ったリンゴ)を排除するのがスマイリーに与えられた使命でしたけど、ジム・ブリドーが新任教師として赴任した教室に紛れ込むフクロウ(だと思うんですが)や、狭い車内を飛び回る蜂も同じですよね。唯その処理の仕方に違いがあるだけで…。スカルプハンター出身で、最前線で汚れ仕事を請け負ってきたジムは、フクロウをあっという間に殺してしまいますが、経験に富むスマイリーは、冷静に車窓を開けて、蜂を逃がす。サーカス内にもぐらがいることに気付いたコントロールは、手駒自体が汚染されている可能性(彼の右腕だったスマイリーも容疑者に含まれてる)を排除できなかった為に、単独でスカルプハンターを動かさざるを得ない羽目に。信頼関係があってもすべての可能性を考慮するコントロールに疑われていたことを知ったスマイリーの心の内はさぞ、複雑だったでしょうね…。スマイリーはコントロールが用意していたチェスの駒以外に、捜査の進行に合わせて(例えば、ソ連の大物カーラの駒を足してる)ゲームを進めてました。もぐら(ビル・ヘイドン)の駒の色が変わったのはどの時点だったのか、スマイリー自身はどの駒の役割が与えられてたのか、ココはDVDで是非、確認したいところです。チェスの知識がないので、夫に纏わりついて教えてもらうつもりです(笑)。

■宝物(情報)は誘惑する
小説でもすっきりしなかったのが、モグラの動機です。上流階級出身で、権威主義的な父の下で抑圧されてきた男。原作にはヘイドンが転向した理由をスマイリーがあれこれ考える場面がありますが、その内容も二転、三転していきます。映画では、スマイリーに向かって転向の理由を言い訳でもするように、やや性急な口調で話してましたけど、ココはヘイドンを演じたコリン・ファースの上手さが光る。彼が語る政治的理由は表層にすぎない事がきちんと透けて見えます。“男子、芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし“くらい突き抜けられないのが育ちの良さでしょうかねえ。。裏切りの動機は、金に女、出世や名誉欲(単一か複数かの違いはあっても)ありきたりで平凡極まりない理由に大抵の場合、落ち着いてしまうもの。青春期特有の、青臭い政治の季節をくぐり抜けた後に、東西両陣営を股にかけたゲームを主導する昂揚感は、本人が望むよりずいぶんと早くに色褪せてしまったでしょうね。それ以降はカーラの操り人形にすぎない事を認めたくはない為に、政治信条(マルキシズム)との折り合いをつけていったんじゃないかと考える方が、私にはしっくりきます。伊達者で複数の愛人を囲ってもいたから、お金はいくらあっても足りなかったでしょうし。。
ピーター・ギラムの配下だったリッキー・ターが規則からの逸脱をしたのもソビエトの工作員イリーナに恋しただけではなく、組織の中で注目されたい野心も合わさっての事でしたし、イリーナ側にも、動機は複数あります。彼女が暴力を受けている場面を一部始終見ていたリッキーからの視線から逃れようと、横移動(笑)するシーンは良かった。ピーターはゲイなのに(ゲイだからか)、新しく入省してきた女性職員に見惚れてるフリをしていたり、サーカスのメンバーは勿論の事、ジムはヘイドンに対する愛情から機密情報を流してしまう…本作の男たちは多かれ少なかれ、何らかの自己欺瞞による保身術を身に纏っています。コントロールに拾われた恩義をあっさり捨てて、アレリン側につくトビーの変わり身の早さは、サーカスのメンバーの中で最も脆い一角として、スマイリー&ギラム組に目をつけられましたし。何せ「背後」を押さえられてしまってます、最初がエレベーターが開く所で、次が送還用の飛行機の計2回。東欧出身で、20世紀の二つの戦争を生き抜いてきた男には、忠誠心より優先すべきものが体の奥深くに染み付いてしまっているのでしょう。

■見えない姿−鏡像と絶対の他者
昔の良きサーカスの最期の輝きを結晶化したような、パーティシーンは素晴らしいです。優秀な分析官としての才能をコントロールの引退と共に葬られてしまったコニー・サックスの記憶をそっくり再現したかのような、ノスタルジーで満たされた空間。フリオ・イグレシアスが歌う「ラ・メール(フランス語で海の意味)」が流れ、酔ったコントロールがパンチの味見をしながらスコットランド系のアレリンにあてこすりを言い(スコットランド人はケチで有名)、英国情報部がソビエト国歌を大合唱する、ペシミスティックでありながら同時に敵としての敬意も表す、イギリス人らしい一筋縄ではいかない屈折した感情が垣間見られる、大好きなシーンです。このクリスマスパーティーで、スマイリーは彼の弱点、アンの浮気現場を目撃してしまうんですが、彼にとっての絶対の他者、美しくて気まぐれで、本質的に他人であるひとりの女の顔を最後まではっきり映さずに映画は終わってしまいます。本作で何度も名前が登場するにもかかわらず、一度もその顔が見えない、ソビエト情報機関の大物カーラと同じじく…。スマイリーにとってのカーラは彼自身の鏡像でもあるんですよね。55年当時、フルシチョフ体制の下行われた反スターリン主義の粛清の嵐の中、ソビエトの情報機関もそれ相応の痛手を被ったことは想像に難くないですが、西側諸国にとっての好機に便乗する形で、工作員のリクルートに派遣されたスマイリーは生涯の好敵手と呼ぶべきカーラとの初対決を余儀なくされます。アメリカの拷問によって両手のすべての爪を失った男。本国(ソビエト)に送還されれば、処刑が待ち構えているだろうに“屈服よりも死を選ぶ“と豪語する狂信者(だとスマイリーは言ってました)。西と東の違いはあるにせよ、互いの体制を探りあう、法の網目を掻い潜るダーティーな仕事を請け負う内に、どちらの側であっても大した違いはない事にスマイリーは気づいてしまってます。無意味な官僚体制を馬鹿げた事だと分かっていても、結果的にそれを支えるシステムからは逃れられない彼を、シニシズムの悪夢から救ってくれる存在が、鉄のカーテンの向こうのカーラであり、私(自己)が保有し、享受し、殺すことも出来ないという意味において、自己の延長線上に存在する私という世界から絶望的な距離に存在するアンではないでしょうか。
原作を先に読んでからの鑑賞だったので、ややこしいと評判になっていた時制については混乱はなかったです。それより、一見何気ない会話や所作、視線の交差が二重、三重に意味を持ってるシーンがどれだけあるか…一度見ただけでは到底拾いきれないくらい、みっちりと練り込まれてます。小説の文体、話法、豊饒な語り口、叙述のみ可能なミスリードを、映画の文体に置き換えていくために選択された技巧を見分けられるだけの能力がない歯がゆさを改めて感じた作品でもありました。後、そうですね、70年代を小物に至るまで忠実に再現した映像は、時代が一巡したせいかとっても新鮮でした。書類ファイルにまで徹底されている赤と緑のコントラストは、鉛色の空やくすんだグレーを基調とする世界の重要なアクセントとなってます。イギリス出身の若手から渋い俳優さんまでが身に着けるスーツ姿もカッコ良い。ペイズリー柄のネクタイ、久々にお目にかかりました。ノーラン作品同様、スーツに萌えますねえ。。