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別離(ネタバレ)/チャドルを被り、家(内)から外へ

■二つの扉
とても印象的だったシークエンスが、ナデル(ペイマン・モアディ)の父(アリ・アスガー=シャーバズィ)が浴室で倒れ、ドアが開かずに中に入ろうとしたナデルの「壁」になってしまった場面。何とか中に入ろうとしている最中に、玄関のチャイムが鳴り、ラジエー(サレー・バヤト)が家の鍵を返しに(←これは口実でしょうけど)再び、ナデルの前に現れる。父をベッドに拘束し、放置したラジエーに怒り心頭だったナデルは、彼女を追い返すために、玄関扉の向こうのラジエーを乱暴に押し出す。この衝撃で倒れた(事実はそうではなかったのですが)彼女が流産したために、殺人罪で起訴される事に…。この時の玄関の扉は、ラジエーを排除する「壁」になってました。アルツハイマーを発症したお年寄りを外部の熟練者や専門家の援助もなく、福祉施設も利用せずに家族だけでお世話するなんて、早晩、介護する家族も共倒れになってしまうと容易に想像つくんですけど、老人介護に関してイランならではの事情がある事、パンフレットを読んでようやくわかりました。普段はめったに買わないのですが、本作のパンフレット、良いですね。分かりづらい社会背景を丁寧に解説してあって、とても助かりました。マジックアワーさん、good jub!です。
イランでは“老人介護は家族の役割であり、介護施設に入れられた老人は大変不幸であるという社会通念(←パンフレットより)”があるとの事。現在、加速度的に高齢化が進んでる日本でも、2〜30年前なら、家族がいながら老人ホームに入居するお年寄りを一種の姥捨て山と同等に扱い、その家族をやんわりと非難したり、入居させられたお年寄りに“可哀想だ“と同情したんじゃないでしょうか。共同体内で生まれる「恥」の文化や暗黙の規範が抑圧装置となって、本来の目的(本作なら介護される老人とそれを支える家族の幸福)より優先されてしまうケースは、国が違っても想像しやすいと思います。
息子の顔も分からなくなった父の介護のために、離婚の危機にあるナデルには、暗黙裡に家長に求められる「責任」が重く圧しかかっています。家族の前でもなかなか弱みを見せられないのはイスラム男性の特徴らしいのですが、バスルームで父の体を洗いながら泣き出す息子(息子の顔も分からない父の前だから、心の武装解除をして初めて泣けるのでしょうが)の姿は、この社会が女性だけではなく、男性にも生きづらい、ある種の息苦しさが存在することの証左じゃないでしょうか。勿論、どの国にも大なり小なり起きる事ですが…。浴室の扉は、ナデルの前に立ちはだかる伝統の中で培われた価値観であり、ラジエーを突き飛ばす壁は、経済格差が生んだ偏見(何せ、彼女がお金を盗んだと思ってましたから)と重なって、肉親に対する愛情と、思うようにいかない苛立ちの間で閉塞し、結果、他者への不寛容として現前化する。世俗社会が変化するスピードに追い付けないイランイスラーム法を、イスラム独自の伝統や慣習が補完してしまってますよね。。

■チャドル(スカーフ)の役目
イスラム革命後の男女隔離(政策)とヴェール着用義務化について、手持ちの本なんですけど、ちょっと面白いことが書いてあったので、抜粋します。

>>革命が成功し、イスラム国家が樹立したが、それは都市部の女性たちが夢見ていたユートピア社会とは程遠いものだった。革命から一年足らずで「女性公務員のスカーフ着用の義務化」の議論が始まった。義務化に反対するテヘランの女性たちがデモを行い、反対するイスラム法学者の力も借りた。しかし、1980年のイラン・イラク戦争の開始もあって、抵抗は終息した。そして、少しづつ男女隔離政策が実施され、バスなどの交通機関でも男女別々に乗る口があって、女性専用の空間が設けられた。けれど、これは逆に女性たちにとってチャンスとなった。官公庁に女性専用窓口や女性のための医療施設が出来、それらの運営は女性だけに許された。これに伴い、女性の専門職が増え、女性の職場進出が目覚ましく進んだ(「布のスカーフが盾に」 アレズ・ファクレジャハニ イスラームと世界−衝突か抵抗かより)<<

男女隔離の原則が、皮肉なことに女性の社会進出を可能にしたと言っているんですね。女性に開かれている専門職が増えれば、おのずと大学進学率も伸びる。女性の大学進学率は既に男女の割合が逆転し(男4に対し女が6)、卒業後に教職につくケースが一番多いそうです(本作のシミンも英語の先生)。高い教育を受け、専門職に就いた女性達は、夫の許可なしでは外出できない(イスラムの聖地、メッカ巡礼も、革命以前は夫の許可なしでは不可能だった)様なイスラームの伝統に則った生活には戻れないでしょう。
OPのタイトルバックにあったコピー機の映像、免許証やらパスポートらしきものが映ってたんですけど、一番最後に登場したのが、パンフレットによると結婚契約書(離婚の条件や離婚の際に支払われる慰謝料の金額など、結婚に関する細かい取決めを何ページにもわたって記載したもの)の最初の1ページだとの事。冒頭で家庭裁判所のシーンから始まる、私たち観客には、何故この夫婦が揉めてるのかも、離婚しようとしている理由も分からずに、全くインターバルなしで映画の中にいきなり放り込まれる訳ですが、結婚契約書に記載されてる(であろう)様々な取り決めを、夫、妻その両方が履行しないで破たんに至る過程を追ったドラマだと言えなくもないです。ナデル達には修復の可能性もあったし、決して愛情がなかったわけではないのに、こういう結果になってしまったんですよね。
wikiで見つけたんですが、終盤の家庭裁判所のシークエンスは、ナデル達は喪の服装(黒)を着ているので、お爺ちゃんは既に亡くなってるとなってました→“The last scene is at the family court, and the three: Nader, Simin, and Termeh, are wearing black, indicative in Persian culture of a death in the family, implying that Nader's father has died”
仮に、喪の装いだとするなら、既にナデルの実父は死亡し、海外移住を妨げる一番の要因は消えた筈なのに、それでも離婚しようとしている(しかも両者間では離婚の合意が成立している)訳ですよね。映画は娘の選択−両親のどちらを選ぶか−を明示しないで終わってしまいますが、本作はテルメーが裁判長と話してる間、長回しのカメラで、外に出されてしまった夫婦が、廊下を挟んで対極の位置にそれぞれ陣取る様子を見せてます。廊下を区切るガラス戸は一部ヒビ割れし、他の争議中の喧騒が漏れ聞こえる空間で、なんとも言えない、いかにも居心地悪そうな両者の距離感が炙り出されます。娘を待つ間に夫婦それぞれの脳裏によぎるものを想像させる、とても良い場面です。古い価値観を捨て、新しい世界に性急に届きたいと願った妻と、妻が捨て去ろうとしていた価値観から逃れられなかった夫の間で、縺れに縺れた感情が、この夫婦を追い込んでしまった。シミンが示談を薦めたのも、夫が罪(ラジエーの流産の原因は彼にある)を認めれば、離婚後の慰謝料なんてもうどうでもいい!そうなれば娘の養育権は私のものって計算があってのことでしょう?殺人罪で起訴された父を庇って娘が嘘の証言をしなければならなくなった事が、二度と後戻りできない分岐点となってしまったんですよね。シミンの実家が比較的裕福な事もあってでしょうが、後は、母として娘を守る、そのためには夫はもういらない!になっちゃった。もう一人、素朴で敬虔な信仰を持つラジエーも、我が子のために決断しました。彼女がチャドルの下に抱いていた神に対する「畏怖」の念がラジエーを動かします。娘の将来に災い為すものを純粋に恐れ、イスラムの教えに従う。それは家長としての夫に従わない事の同義語でもあるんです。
緻密な脚本と、演出力で練られたドラマは、ピンと張りつめた緊張感を持続させながら、日常のほんのわずかな擦れ違いが嘘が、人の弱さや狡さを切り取る鋭利な刃物となって、グサッと突き刺ささって来ます。中でも苛立ったシミンが娘に投げかけた言葉は、痛かったですねえ。わたしもああ言っちゃうかもしれない。。しんどいドラマですけど、時折挟まれる、微笑ましいシーン(実家に戻るシミンの手をつかんで離さないお爺ちゃん)やコミカルな場面(逮捕されたナデルと手錠で繋がったままの警官の腕が、コーランの誓いの前で一緒に動く場面や、酸素ボンベで遊んでるラジエーの娘に、目を白黒させてるお爺ちゃん。あれじゃ、本当に死んじゃうよ…笑)がアクセントになってて良かったです。窓から差し込む柔らかな光の中、チャドルを被る際の、独特の指の動きやふわっと翻るヴェールのふくらみ、変圧器の上に置かれた鍵を背伸びして捕るラジエーの不安定な姿勢、エレベーター内での美しいシミンの横顔、とっかえひっかえしてるヴェールの上品な色合い、スカーフから覗く彼女の鮮やかな赤毛とか、とにかく女優さんが印象深い作品でした。