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許されざる者 2013(ネタバレ)/懐の石炭

■虐げられし者

「最後の西部劇」というキャッチコピーで公開されたクリント・イーストウッド版『許されざる者』は、最もアメリカ的なアメリカ映画「西部劇」を解体してしまった作品として、キャッチコピー込みで記憶に残ってる作品です。社会的、道徳的秩序の脆弱な西部で、荒くれ者達から「スモールタウン」を守る為に銃規制を行う法と秩序の番人=保安官と、娼婦に雇われたアウトローの対決。どちら側にも正義はあり、悪でもあるんですが、酒を飲んで「死神」と化したマニーが“親友を埋葬しろ、娼婦を敬え(だったかな?)”と、夜の雨の中で叫ぶ彼の背後に現れる星条旗が印象深くて、さて今作には星条旗に代わるものが登場するのかしらん?と、この一点のみ興味があって観てきました。結果、見つからなかった!(爆)。

イーストウッド作品でしばしば登場する聖痕(スティグマ)については、蓮實重彦氏の指摘にある通り*1。オリジナル同様、本作でも渡辺謙 (釜田十兵衛)の顔には娼婦と同じ傷が刻まれますが、その意味は随分違う気がします。聖痕を通して結びつく擬似親子関係には違いないんですが、その上にもうひとつ、虐げられたものの悲哀が重なる。衆目に曝され蔑みの対象となる、社会的マイノリティに残酷にも刻印されるスティグマのようでした。
十兵衛は、夕張の隠れキリシタンの村で、女子供まで虐殺したと言われてる「伝説」の悪人。でも、 柄本明 (馬場金吾)が語っていたように、女子供まで巻き込んだ大虐殺を行ったのは、戊辰戦争の残党狩りをする討伐隊、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍なんですよね?その討伐隊を全滅させた十兵衛像は、やがて伝説となる過程で勝者の側の歴史(新政府)によって都合よく歪められてしまったんではないでしょうか。勝者の論理によって、負けた側が背負わされる負の歴史。終盤、國村隼 (北大路正春 )にくっついて、この地にやって来た物書きに、十兵衛は“ここで見たありのままを書け。但し娼婦とアイヌの事は書くな。もし書いたらどこまでもお前を追いかけて殺す“みたいなこと話してたんですけど、勝者から負の歴史を押し付けられた過去を持つ十兵衛の胸中は、俺と同じような犠牲者を出すな!ということなのでしょう。
『リバティ・バランスを射った男(ジョン・フォード監督)』にも、西部の伝説が「虚構」によって造られていく様が描かれています。秩序が安定しない野蛮な時代から文明化していく過程における「虚構」の役割、神話的物語が誕生する必然性の内に、既に虚構=嘘が入り込む、西部劇に対する自己言及的な視点がありましたが、本作にもそれを感じました。冒頭、勝者側の新政府の人間 佐藤浩市 (大石一蔵)のナレーションで始まり、ラストは社会的マイノリティ、顔を傷つけられた娼婦 忽那汐里 (なつめ )のナレーションで終わる。冒頭とラストで語り部が変わるのは、勝者の都合の良い歴史ではなく、虐げられた者たちの「もうひとつの歴史」を未来に向かって紡いでいける可能性を残したんだと思います。

和服を粋に着こなす國村隼さんの佇まいはさすがです。作品全体が重いトーンで一息入れる所が殆どなかったんですが、馬場金吾が女郎たちから受け取った賞金の一部で、長らく女とは縁のない生活だったためか、敵討ちを果たす前に女を買ってしまい、深く反省した(なわけないか)そぶりで項垂れていた場面は可笑しかった。ワンフレームで見せてたんですが、事が終わった後、女郎小池栄子 (お梶)が股間を拭う際に見える真直ぐに伸びた脚の白さには見惚れました。柄本明さん良いですね。彼が語る「懐の石炭」にはウルウル。


*1:http://www.mube.jp/pages/critique_5.html