クロニクル2012(ネタバレ)/鏡の向こうは僕だけの世界

■お前もボスになったんだろ、この瓦礫の山で

虐められっ子のデイン・デハーン (アンドリュー)がランチをとる場所だったグラウンドの観客席。ランチルームを避けてたのは、虐めっ子達の「視界」に入らない様にしていたんでしょうね。彼の目=「視覚」を代理するビデオカメラを設置し、グラウンドが見渡せる位置に陣取る。彼の背後にあるカメラに映るのは、彼の背中越しのチアガールたちの練習風景。やがて、ビデオカメラの存在に気づいたひとりの女の子が近寄り、一言“ビデオ撮りは止めて。キモいから“と告げて去る。高校生たちのパーティーでは、同じくビデオ撮りしていたアンドリューに“俺の女を勝手に撮るな“と、マッチョな男がいきなりに殴りかかってきます。
視界の中に誰がどれだけ居ようとも、視る(主体)を「見返す」対象(客体)から向けられる視線が存在しないのなら、そこは彼(主体)だけが存在する孤独な空間です。だだっ広い公園にポツンと独りいるのと同じ。彼を見返す、彼に視線を向けるものは誰もいないのですから。視覚の絶対者が君臨する小王国は、主体を見返す、対象からの視線による乱入(チアガールの女の子、マッチョな男の子)で、幻のように崩壊してしまうんですね。
何をやっても、たとえ他の人と同じことをやったとしてもムカつかれるタイプのアンドリューが醸し出す負のオーラとの相乗効果もあって、客体(対象)に過剰に伝わってしまうのでしょうか、ビデオカメラの背後にある主体の欲望を敏感に嗅ぎ取り、視覚の暴力性に抗する別の暴力となって現れます。

冒頭、アンドリューが自室の扉の裏側に張り付けられた鏡に向かって、ビデオ撮影している「自画撮り」をしていた理由はココにあるんだと思います。
生後6ヵ月から18ヵ月くらいの幼児の発育段階のひとつ「鏡像段階 」。「私」が鏡=虚像を通して「私」を識る━まず、鏡に映った視覚イメージ(外観)を視る事から始まった体験が、自己の内面の統一感と一体化した時に、子供は歓喜を得ます。私ではない、私の虚像=鏡に映る像を私だと取り違える、鏡に映った像に同一化することで自我が芽生えるとするラカンのテーゼのひとつなんですが、幼児はやがて、鏡に映り込む自画像だけではなく、自己像を取り巻く鏡の中の他者との関係性を基に社会=世界を認識し始めるのに、アンドリューは自己しか存在しない世界に閉じてしまってるんですよね。彼が鏡に映る自己の姿をビデオ撮りしているのは、カメラ=視覚との同一化に依って不安定な自己の内面を安定した像へと結び付ける事で自己満足を得ているじゃないかと…。鏡の中の彼は、チアガールたちのように、アンドリューから見つめられることに不快感を示したりはしない。「視る」主体が「視られる」客体からの視線を受けても、鏡の中の虚像は彼を傷つけたりはしないんですもの。


生徒会長で人望のあるマイケル・B・ジョーダン (スティーブ)。アンドリューのいとこのアレックス・ラッセル( マット)。高校カーストの中で絶対に接触しない筈の3人が 森の中で偶然、念力(テレキネシス)を手に入れたが為に、共同体内のヒエラルキーの壁を超えた友情が芽生えます。このふたりはビデオカメラを肌身離さず持ち歩くアンドリューを心配していて、忠告までしてたんですね。でも所謂勝ち組のふたりにはアンドリューが抱えてる孤独の底の底までは分からない。彼らはアンドリューのカメラは、自身を守る“バリアー“=壁(盾)だと思ってました。でも、ビデオカメラが他者とアンドリューを隔てる防御壁にはなってない事は、チアガールらのエピソードで分かりますよね。
例えばなんですが、『アメリカン・ビューティー』に登場した隣家のカメラ少年。ズーム機能のあるビデオカメラなら、対象に気づかれることなくその映像を記録できます。対象との距離が彼を守ってくれる壁となる。彼のやっていた事は実質上の「窃視」なんですよ。やがてこの少年はカメラの向こうから「見返す」視線に気づき、彼の世界は一変します。アンドリューと同じ独裁者で抑圧的な父と、(精神を)病んだ母で構成される崩壊家庭でしたが、なんとか(いろいろあって完全な無辜とは言い難いんですが)毒親の元から飛び立てたんですね。それは彼を見返す視線=他者との関係性が築けたからなんですが。。

一方、アンドリューの方はスティーブのお膳立てで、彼を見返す視線を気にしなくても済むどころか、承認要求を満たしてくれるハイスクールの人気者となり、彼の外部世界は一端は広がりそうになったものの、童貞喪失の手痛い失敗とその屈辱から、以前にも増して「テレキネシス」に依存していくようになります。
“僕は強い人間なんだ”というのは、病気の母が繰り返し彼に話していた言葉です。母を助けられなかった無念さから更なる力を希求するのは理解できます。でもねぇ、ちょっと引っ掛かる所もあるんですよ。
3人組の乗る車の後方からけたたましくクラクションを鳴らし煽っていた白人男性がいましたが、見るからにホワイト・トラッシュで粗暴なこの男性は、アンドリューにとって「父」と同列の人種です。テレキネシスで車がすっ飛んで池に落ち、溺れそうになってる男性を最初に飛び込んで助けたのはスティーブ。彼が人望を集めるのはこういった性格に由来するんでしょうね。マットは右往左往しながらも、水に入りスティーブの手助けをしてました。で、アンドリューはこの間、ずっと撮影を続ける。彼の中では虐待を繰り返す父親と、この白人男性は重なってるので、カメラを回しながらも、呼吸は荒い。興奮状態なんでしょうね。この事件は後の父殺しへの前兆なんだと思います。

終盤、『AKIRA』の鉄男と化した*1アンドリューは、シアトルのランドマーク「スペースニードルタワー」の展望台にいた観光客からスマホを念力で取り上げ、自画撮りさせます。スマホを自由に操る事によって視る主体は観光客から、アンドリュー自身にすり替わってしまう、鏡に向かってカメラを回していた冒頭の彼自身と同じ*2になってしまうんです。ココには視る主体と視られる客体の差異は生まれません。“僕だけを視ろ“と大衆を操作する絶対者=「頂点捕食者」となった(なりたかった)アンドリューの欲望は、最後まで「視る」「視られる」の関係性の中に閉じてしまうんですね。作品内で、彼が客観的視点=第三者が撮影した映像(防犯カメラ、TVのニュース映像)を「視た」場面、一度もなかったと思います。
アンドリューが絶命したシーンは印象的でした。銅像の槍が刺さったまま「宙に浮く」彼の姿は、ヘリの強烈な照明が影を作り、まるで影が地面に縫い付けられたように見えました。彼の実体は宙ぶらりんのまま、虚像=影は地面にあるわけですよね…ふむ。。

「ファウンド・フッテージ」が臨場感、リアル感のみで選択されただけははく、本作には主題と密接に結びついている、視る主体、視られる客体の関係性が意味のネットワークにキチンと回収されていく面白さがあります。かなりクレバーな監督さんなのかなぁ、次回作が楽しみになりました。
3人組が徐々に力を増していく過程が良いですね。高校生にもなってレゴブロックで遊んでいる様子にはくすっとなりました。やっぱり男の子は幼い。
後、そうですね。終盤アンドリューの足元の水たまりが、彼を避けてく所も好きです。本作で水に関係するのは、池に落ちた男性と、落雷で死んだスティーヴでしょう?無意識でも罪の意識があって、その心の働きが「水」を避けてしまうんじゃないでしょうか。

*1:入院着のままだった事、ガソリンスタンド強盗の際に負った火傷で片方の腕が赤剥けていた事、衝撃波で窓ガラスが割れる等、類似点は多いです。監督は影響を受けてると発言されてますね

*2:偶然、この惨事に居合わせた観光客は、自身の欲望=この決定的瞬間を映像に収めようと、スマホを手にしてました。この段階では、視る主体は観光客。アンドリューにスマホを奪われた後、実質的な主体はいなくなり、視る欲望は、スマホを操作する視られる客体=アンドリューと同一化してしまうんじゃないでしょうか。 10/25追加