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危険なプロット(ネタバレ)/筋書きはお気に召すままに

■どうして現在形なんだ?

“ピザと携帯“の事しか頭にない、16歳の日常がわずか2行の文章で完結してしまうイマドキの生徒を眺めては、教師という職業に倦み疲れ、退屈な毎日を送っていたファブリス・ルキーニ (ジェルマン )。宿題の作文の添削からルンスト・ウンハウアー (クロード)の非凡な文才に気づき、彼の才能を開花させようと熱心な個人指導にのめり込んでいきます。クロードの創作する「物語」はクラスメイトのバスティアン・ウゲット( ラファ・アルトール・フィス)と、その両親とで構成される「聖家族」がモデル(素材)で、辛辣な観察者クロードの目を通して、平和で健全な中産階級の、その裏に隠された欲望と欺瞞を暴いていくもので、作品中でも引用されていた通り、クロードの物語の虜となったジェルマンを『アラビアン・ナイト』のシャフリヤール王に、ジェルマンの為「だけ」に、物語を紡ぐクロードをシェヘラザードに見立てる事は容易です。
終盤、妻で画廊経営者クリスティン・スコット・トーマス (ジャンヌ)がジェルマンともみ合った際に手にした本は 、“呪われた作家”セリーヌの自伝的小説『夜の果てへの旅』。若い頃、凡庸な恋愛小説を世に出したきりで「作家」として成功出来なかったジェルマンの欲望が、教師としての倫理を超えさせ、文字通り本=物語によって人生を狂わされた男のお話として完結させるのも面白いのですが、『夜の果てへの旅』を読んでないので言及しようがないんです(笑)。何より一番印象に残ったのは、終盤であからさまに引用されていたヒッチコックの『裏窓』の方でした。パンフレットは買ってないので、どこまで触れてあるか知らないんですけど…。
ヒッチ・コックの関連本の中で、読む機会が多かったのがスラヴォイ・ジジェクの手によるもの。ジジェクは著作の中で何度もヒッチ作品を取り上げていて、その都度、微妙に変化していくので(笑)、どの本を参照すればよいのかしらん?といった状態なんですが、一番読まれていそうな『斜めから見る』から一部抜粋します。

この裏窓は本質的には幻想の窓である。ジェフ(ジェームス・スチューアート)はどうしても行動を起こすことが出来ずに、その(性的)行為を無限に延期する。彼が窓を通して見ているのは、正しく、彼とグレース・ケリーとの間に起こるかもしれない事の幻想による表現である……中略……要するに、彼が窓の向こう側に見ているものの意味は、窓のこちら側における彼の実際の状況によって決まるのである。現実の行き詰まりに対する様々な想像上の解決策に一通り目を通す為には「窓の外を見」さえすればいいのである

『裏窓』のジェフは取材中の事故により片足を骨折したカメラマン。退屈しのぎに自宅アパートの裏窓から、向かいのアパートを覗き見します。彼には美しい恋人グレース・ケリーがいますが、結婚にはあまり乗り気ではない。完璧な条件を備えた彼女と自分とでは不釣り合いじゃないかと不安に思ってる。この無意識の不安が、アパートを覗き見している際にも如実に現れるんですね。彼の視線の先にあるのは、現在の彼の姿=自由な独身生活(ミス・ロンリーハートと、ミス・トルソーの対比)と、未来の自分の姿=結婚生活の変遷(あつあつの新婚カップルと冷え切った中年夫婦)、およそジェフが抱えてる不安を根源とする事象に限定されている━ギブスで固定され自由を奪われた彼の身体と同じく、彼の眼差しも自由を奪われているんです。
まるで映画のセットを模したようなアパートの窓で上演(上映)される諸々こそが、ジェフが自ら抱える不安や願望を投影しているスクリーン=幻想なんだ!というのがジジェク説で、私は結構、気に入ってました。
本作でもラストシークエンスに登場する公園のベンチの向こうにあるアパート*1では、ふたりの争う女がいて銃声が鳴り、ヒッチ的サスペンスが「演じ」られてます。『裏窓』のジェフが窓から見えるスクリーンに自己の欲望と不安を投影しつつ、恋人の助けを得、殺人犯と対峙し(ココで視る主体の優位性は決定的に失われる)結婚恐怖症を克服したのと同じく、挫折した小説家のなれの果てのジェルマンは、クロードという「共犯者」を得、「物語」を完成させていくんですね。クロードを通して覗き見する「聖家族」がコロコロと舞台が変わるように、中産階級的危機からシットコム、エディプスコンプレックスやビルドゥングスロマン小説、メロドラマまで貪欲に取り込んだ「筋書き」通りに「演じ」られてるのは、一度は小説家を目指したジェルマンの脳内で、長年塩漬けにされていた小説のアイデア(プロット)が元なんだと思ってます。そこにクロードが独自の脚色を加えているようで、現実か幻想かの境は、ジェルマンとクロードの融解によっていっそう複雑になっており、もう何がなんだかさっぱりなんですけど、さすがにクロードさえ、ジェルマンが生んだ幻想と言い切るには無理があります(笑)。
教室の最後部に陣取り、全てを視ていたクロードと、人生の敗者となったジェルマンとの間には互いの欲望を「覗き」あい、共犯となった者同士の結束と、さらなる欲望を糧にそれでも物語を紡ぐことを辞められない者同士が無二のパートナーを得た幸福感で満たされた(ように見える)ラストなんですが、『裏窓』ではジェフが心理的圧迫感を感じないで済む「過剰」な女性性を彼(との結婚)の為に捨てた恋人が、彼好みの女になった証(ラフな格好で探検記を読む)を見せた後、寝入ってしまったジェフを確認した上で、いつも通りファッション誌を手にしてるオチがあって、ココはまだモヤっとしています。

ラカン派のジジェクですから、リビドーが登場するのはもうお約束ですよね。気になるのは本作にもその片鱗は感じられる事。小説の中でクロードが熟女たちと関係を持ちますが、どっちの欲望なのか分からないぞ(笑)。
ジェルマンとジャンヌ夫婦に子供がない、その理由も夫婦間で違ってましたね。どこまでが現実でどこからが虚構なのか、その境目が融解してしまってる作品である上に、クロードからの証言(子供がないのはジュリアが不妊症だとジャルマンが話したと言ってた)だけなので、さらに混沌としてしまうんです。その後のジャンヌのリアクションから作り話だろうとは想像できますが…。不妊うんぬんはジェルマンの屈折したコンプレックスじゃないでしょうか。
“中産階級の匂い”を纏ったラファの母エステルを、あの妖艶な美貌で一時代を築いたエマニュエル・セニエが演じていて、彼女が気怠くソファーでくつろぐ(ソファーの色は彼女の目の色と同じなんです!)艶めかしい場面を、さばさばしていて色気のないクリスティン・スコット・トーマスが自宅で、同じくソファーでくつろぐシーンとして対置してあるんですが、オゾンらしい皮肉なのか、それともクロードの物語が既に彼の現実を侵食し始めている(クロードの物語の影響を受けて、ジェルマンにはそう見えている━彼の欲望が投影されている)のかは、私には判別つかなかった。クリスティン・スコット・トーマスで一番色気を感じたのは、クロードがジェルマンから借りた本をキャリーバックに入れ自宅を訪ねた際“夫はいないわ”“知ってます“(←だったかな?)のやり取りの後、一瞬彼女の瞳が輝く所でしたもん。これは分かるわ―(笑)。世界一“退屈した女”エステルと、空疎な現代アートに、その実体も掴めぬまま、輪をかけて空疎で無意味な言葉を羅列しただけの美術批評文に振り回されているジャンヌを対置させるオゾンの鋭さは健在ですね。

*1:アパートを映画のスクリーンに擬えるなら、公園のベンチは映画館の座席でしょうか。