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眠れる美女(ネタバレ)/目覚める美女

■恋をしたのか?

イタリアを揺るがしたエルアーナ・エングラーロの尊厳死問題。この事件については、以下のサイトを参照しました↓
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/23901/02390106.pdf

本作はエルアーナを受け入れたイタリア北東部のウディネの病院で、司法決定に従い延命措置停止となったエルアーノが死亡するまでの約3日間に起きた出来事が中心です。
ベッファルディ議員(トニ・セルビッロウリアーノ)とその娘マリア(アルバ・ロルバケル)、ヤク中で自殺衝動のあるロッサ(マヤ・サンサ)と担当医パッリド(ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ )、植物状態となった娘ローザの母ヴィナマドレ(イザベル・ユペール)とその家族、この3つの物語が、各パートの枠内で登場人物たちが一度も交差することもなく「尊厳(死)」を中核にその周縁を、それぞれが独立してぐるぐる回ってるようなお話です。事件の中心にいる(筈の)エルアーナやその家族は一度も登場せず、TV等の報道やニュースで動向が伝えられるのみなんですが、どの物語にも共通しているのが、『眠れる美女』が登場する事。

ベッファルディ議員には、不治の病を患い苦しんだ妻のたっての願いを聞き入れ、生命維持装置を外した過去があり(このケースは自殺ほう助ですね)これをきっかけに娘マリアとギクシャクしてしまい、マリアは父への反発から裁判所決定に反対する抗議運動に参加しようと家を飛び出します。家を出ていこうとする娘を止めようとする父が、妻を亡くした際にも同じように娘に腕を振り払われた記憶(場面)を並列させる編集の繋ぎは良いですね。マリアの髪型や衣装の違いから過去の記憶だとは推測できても、それがどこに繋がるかは物語がかなり進まないと分からない。私はこの場面がどこに登場するか、ずっとワクワクしながら観てました。
偶然知り合ったロベルトの弟から水をぶっかけられ「目覚め」への準備段階に入ったマリア。このパートでの『眠れる美女』は彼女自身なんだと思います。車中で運転中のロベルトをじっと見つめる真摯な眼差しから、エルアーナの死を悼みアチコチで鳴り響く鐘の音を聞き、今にも零れ落ちそうな涙を湛えた瞳と、兎に角「目」がとても印象的な女優さん。笑うと目じりに小皺が寄る優しい目元も可愛らしいし、目元周りの皮膚の薄さと透明感はもう最強だわ(笑)。
永遠に続くかのように思われた二人の関係は、エキセントリックで情緒不安定そうな弟、運転手つきの車、豪華な真珠のネックレスと手入れの良いショートヘアでいかにもな富裕層の母親と、ロベルトにも何かしら複雑な背景があっての事なんだろうとまでは想像できても、理由も分からず彼から一方的に告げられた(しかもスマホのメールで)突然の別れで幕を閉じます。恋をし、それを失った痛みが、マリアを目覚めへと導くんですね。

尊厳死に反対の立場を貫くカトリック教会と蜜月関係にあるシルヴィオ・ベルルスコーニは建設業で財を成した後、テレビ会社を設立、同業を次々に買収して「イタリアのメディア王」と呼ばれた人物。エルアーナ問題の報道がどこにいてもついて回る、イタリア全土を巻き込んだ異様な熱量の中、政治の中枢で、党からの圧力に屈せず自身の信念を貫こうとしたベッファルディの相談役が精神科医(彼だけではなく議員御用達のお医者さんみたいですが)だったのは皮肉ですね。守秘義務のある医師だからこそなんでしょうが…。
古代ローマ時代から続く公衆浴場で密会し進退問題の相談をやってましたが、西部劇の床屋と同じく、女性が寄りつかない場所で男同士の紐帯が生まれる。幻想的なろうそくの灯りに浮かぶローマ風呂の風景は、神の国の法(カトリック)と世俗の法とを巧みに使い分けてきたイタリアの歴史の深淵を垣間見せます。公衆浴場の客達が湯船に浸り、頭だけを出してTVニュースを見ている様子は、池の中の亀のようで、ココは可笑しかった。


■私と寝ない?

ロッサと医師パッリドのパートでの『眠れる美女』はロッサ自身。序盤、教会のベンチで眠っていた彼女は、病院での眠りの後「目覚め」ます。
他の2つのパートには、家族内に尊厳死問題が横たわっていて、エルアーナ事件が他人事で済まされない切実な動機が明確にありますが、一見無関係に見えるロッサも、事「尊厳」に関してなら言いたい事は山ほどある人物で、薬物依存となりボロボロの人生とおさらばするために「自殺」しようとしている彼女とパッリドの口論には、尊厳死を巡る問題の一端が透けて見えるような気がします。
カトリック教会が尊厳死に反対するのは、どのような形であれ、神から与えられた命は平等で大切なものであり、人の作為で操作してはいけない!の立場なんですよね。同じ理由から人工中絶や死刑執行にも反対している、その点では首尾一貫してるんですが…。
ロッサの主張は、薬物でボロボロになった私の「生」には尊厳など既にない。苦痛に満ちた耐えがたい生を余儀なくされるより、自殺した方が私の尊厳は守られる。
確かに「尊厳を守るための死」には「自殺」との境界があいまいになってしまう部分を含んではいても、彼女の言ってることは一種の甘えであり、自身の死までを自己の管理下に置く、意思決定主義を歪曲し、自身の弱さを認められない隠れ蓑にしようとしてるんです。そんな彼女を引っぱたき「目覚め」へと導いたパッリドは、童話と同じく『眠れる美女』にこっそりキスまでしてました。
ロッサ達のパートを挟むことで、カトリックが主張する「人の手が関与しない作為のない死」と「尊厳を守るための死」の二項対立に亀裂を入れ、揺さぶろうとしたのかどうか、その効果は私にはイマイチよく分かりませんでした。
寧ろそういった命題に還元できる部分より、教会での盗みの際、まずナイフで指を切り血をぺろりと舐める、野生動物のようにも悪魔的にも見える彼女なんですが、行動が全く読めない、何をするのか分からない予測不可能な「面白さ」があるんです。
医師パッリドが手首をいきなり切り裂いたロッサを抑え込む、重なり合う肉体、縺れあい、ぶつかり合う肉体のリアルな存在感と、彼女の強靭な相貌がクローズアップの切り返し毎に次々と皮膚の下の感情をむき出しにする顔面芝居には見惚れましたね。
序盤、教会で眠っていた『眠れる美女』はラストで、窓を開け、同じ病室で眠りこけてるパッリドの靴を脱がし、ベッドに潜り込みます(実際に眠っているわけではない)。彼女が窓を開けた時、カメラはその背後にあるんですが、パッリドを振り返るカットでは、カメラは病室の外に出てしまう俯瞰ショットになって、ココはこのふたりを見守る存在=視線を感じました。それを神と呼ぶかどうかはさておいて。。
靴を脱がせるのはヴィナマドレが、同じく娘のベッド脇のソファーで眠りこける前に黒いヒールを脱いでいた場面との対置で、靴を履いたままだとぐっすりとは眠れない(眠るときにしか靴は脱がない)筈なので、彼女なりの感謝と好意、いたずら心の表れなんでしょう。靴を脱がせてる画は、洗足式(洗足の木曜日)にちょっと似てるんですよ。その他にも、キリストの足に香油を塗るマグダラのマリア(ルカ福音書)の逸話なんかも連想してしまいます。

■光は闇に、闇は光に

女優としてのキャリアを捨て、植物状態となった娘の看病(←とは言っても実際のケアは使用人がやってる)と祈りに生活のすべてを捧げているヴィナマドレ。同じ俳優の夫*1が、諦観といささかの皮肉と愛情の入り混じった複雑な感情から、妻を「聖母」と呼ぶ訳は、この豪邸が既に「神の家」=教会と同じになってしまってるからなんですよね。だって、彼女がやってることは「祈り」=神との対話だけですもの。彼女に神の声が届いていたかどうかは疑問ですが…。
輝かしい女優の経歴も、息子からの熱烈な思慕も遠ざけ、慈悲深さの代りに氷のような冷やかさで君臨する「聖母」が、同じ植物状態だったエルアーナに人一倍の関心と深い同情を寄せるのは理解できます。
面白いなぁと思ったのは、大方の予想に反して、延命措置停止となったエルアーナがわずか三日間で天に召された事。キリストの復活はその死から三日後でしたが、エルアーナには神の奇跡は起きなかったんですよね。一方で、意思表示の出来ない植物状態だったエルアーナの死は、カトリック側から見れば国家による殺人に当たるわけで、カトリックにおいて大罪とされる「自殺」にはならない。彼女の御霊は、すんなりと神の下に迎え入れられるわけですよね。延命措置をしようがしまいが、自己の意思決定が出来ないエルアーナの魂は「神の国の法」に依れば穢れようがないんです。
ベッファルディ議員の妻は、重病でしたが意思決定もその意思表示もできる状態で、敬虔な信仰を持つ妻の方が“私を早く楽にさせて、神の下に行かせて“と願い、信仰心の薄い夫は神の国の法よりも世俗の慣習に従い、命ある限りは病気との闘いを続け、病院で存命させる事を望んでました。カトリック教会(その総本山であるヴァチカン)と、信仰を持ちながらもごく普通に生活している者との意識には相当な乖離がありそう…。
ローザの母ヴィナマドレのパートは、エルアーナの死を知った後、使用人を遠ざけた娘のベッド脇で靴を脱ぎ眠りこける彼女の姿で終わります。本作の眠れる美女たちはそれぞれ「目覚め」ていくのに、彼女だけが最後に『眠れる美女』になってしまうんですよ。その上、寝言で話してたのはマクベス夫人の有名なセリフ“(私の手)は血で汚れて、その汚れが落ちない”でした。ココは、後で考え込んでしまった所。エレアーノの死をキッカケに、彼女にもやがては等しく「目覚め」の時がやって来る、その前段階としての眠りなのか、神の沈黙に対して絶望も糾弾もせず、唯、眠り(思考停止状態)に堕ちながら、マクベス夫人と同じく、罪の意識に夢(潜在意識)の中で追われ続けるのか(マクベス夫人は夢遊病の設定)どっちなんでしょうか。そもそも、眠りに落ちるのはそれ以前は覚醒しているという大前提があっての事。ヴィナマドレがそれまで目覚めていた(思考停止状態ではなかった)かさえ定かじゃないと思うのですが。。

*1:夫は息子に向かって“俳優でも聖母の夫を演じるのは難しい”みたいなこと話してました。聖母マリアの夫、大工のヨセフは、キリスト以上にマリア信仰の篤いカトリック圏で、常に老人として絵画等で描かれる、精々が控えめな脇役でした。ヨセフが列聖されたのは19世紀になってから