かぐや姫の物語(ネタバレ)/ めぐれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ

■まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ

日本最古の物語『竹取物語』に大胆な解釈を持ち込んだ作品。古典の授業、久々に思い出したぞー(笑)。
作品中何度も登場する、子供たちが歌うわらべ歌と、月人(とりあえずこう書いておきます。月の住人が何であるかは後ほど触れます)が哀しげに口ずさんでいた歌の虜となったかぐや姫。歌詞が違っているんですが、本作の要とも言えるので、書きだしておきます。

※わらべ歌

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
 まわって お日さん 連れてこい
 鳥 虫 けもの 草 木 花
 春 夏 秋 冬 呼んでこい


※月の女性(三保の松原の天女)が唄っていた、悲しげな調べの歌

 めぐれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
 めぐって 心を 連れてゆけ
 鳥 虫 けもの 草 木 花
 人の情けを はぐくみて
 まつとしきかば 今かへりこむ

月世界ではタブーとされている地球に憧れたことがかぐや姫が犯した「罪」であり、タブー(禁忌)の地=不浄の中心「地球」に姫を降ろし、彼女自身が穢れに塗れ(そうになり)、耐えきれなくなり清浄の地「月」にSOSを求める、かつて憧れていたものが取るに足らないどころか、自身を苦しめる元凶だと悟るに至るまで、月面から姫を監視し、2度と不浄の地に憧れなど抱かぬようマインドコントロールするのが、姫が受けた「罰」。かぐや姫の「降下」は、罪を犯した者を「矯正」するプログラムなんですね。
子供たちのわらべ歌に登場する「水車」が水の惑星「地球」で、“お日さんつれてこい”“春 夏 秋 冬 呼んでこい ”太陽の周りを公転し、尚且つ自転する地球には四季があり、昼と夜の長さも季節で変わる(緯度によって違いはありますが)。「天地(あめつち)」に生きるものの宿命=限りある命の内に在りながら、常に「変化」し続ける、その運動が「回転(回ること)」なんだと思います。
本作、わらべ歌以外に結構「まわる=変化」が登場するんですよ。
翁の手のひらにすっぽり収まる、お雛様みたいに可愛らしい稚児(かぐや姫)は人間の赤ちゃんにメタモルフォーゼ(変身、変化)しますし、一度も子供を産んだこともない、「月」のもの(生理)も終わってる筈の(閉経した)媼にも母乳が出るようになる。初めて子を持った喜びが時間の因果律を飛び越えて(一種の若返りですね)老女の身体まで変化させる奇蹟を起こす。
捨丸は「木地師」と呼ばれる技術集団に属し、木地師には、文徳天皇の第一皇子惟喬親王(844~897年)が法華経の巻物を広げた際に軸が回転することから轆轤(ろくろ)を考案、山里の民に木を削りだす道具として伝えたという伝承があります。*1
木地師たちは、資源を枯渇させないために、一つの地に定着せずに漂流する民(全ての木地師がそうであった訳ではないので、ココは監督独自の解釈だと思いますが)。山の木々が再生する間、余所に移動しては舞い戻るライフスタイルを、炭焼きの老人は「四季」の移ろい(変化)に擬えてました(冬の枯れ木も春の準備をしている)。
翁が都に建てた屋敷に住みついた子猫は、やがて何匹もの子を産み母ネコとなり、捨丸も同じ木地師の娘と結ばれて子を持つ親となる。春から夏、秋から冬へと季節は移ろうのと同じく、絶えず変化するのが人の世です。
牛車の車輪の軸が、翁の顔とオーバーラップして「回転」するのは、この当時の牛車が貴族階級の乗り物で、現代なら運転手付きの高級外車を所有しているようなものでしょうか、鄙びた山里で竹を編んで糊口をしのいでいた翁が、貴族と肩を並べる(並べたいと願う)所まで欲望が肥大化してしまった事がよく分かる場面だと思います。素朴な翁さえ、富と権力に毒されていても、それこそが娘を幸せにする唯一の方法で、娘を授けてくれた天の意向でもあると勝手に思い込み、娘が隠している本心に気づいてやれない。翁の愚かさを断罪しようにも、その根っこの部分には娘に対する愛情がしっかりと残っている分、厄介なんです。悪意のない、寧ろ「善」なる心が更に事態を悪化させるエグさが高畑作品には散見されますね。


■あめつちよ、私を受け入れて


泣くにしろ、笑うにしろ、赤子の心が生き生きと躍動するたびに、タケノコのようにズンズン成長していったかぐや。赤ん坊が歩き出す頃に木地師の子供たちと翁との間で起きた、ユーモラスな赤ちゃん争奪戦がありましたが、翁が赤ん坊を姫と呼ぶのに対抗して、子供たちは「たけのこ」と囃仕立てる━翁は高貴な名、木地師の子供たちは下賤な呼び名なんですよね。高貴(清浄)VS下賤(不浄)の二項対立の構図は、そのまま月人(かぐやの父王)の世界と地球とに置き換え可能だと思います。静寂に包まれた清浄の地「月」と、不浄の地「地球」は、都と鄙びた山里との関係とも重なります。言いかえれば、翁は何も知らずに娘を「月」にいた時と同じ状況=籠の中の鳥として抑圧してたんですね。娘は地球に憧れたのと同じく、幼少期を過ごした山里に戻りたい*2と願いながら、育ててくれた父母を裏切れず、その感情を偽りの庭を造り慰撫することで誤魔化し、自身の奥深くに押し込めてしまう。
抑圧された諸々が噴出したのが、髪上げの儀の満月の夜。酔客の下賤な言葉をきっかけにムーン・パワー(貝合わせの貝を素手で割ってましたから、ものすごい怪力です)を解放し、故郷の山里を目指します。木地師たちも既にこの地を離れ、懐かしい我が家には見知らぬ人が住んでいて、都大路に十二単を脱ぎ捨て乞食同然の身なりとなったかぐやは施しまで受ける始末。行き場を失ったかぐやを救ったのが炭焼き老人のセリフです。春は必ず巡ってくる=捨丸たちがいた頃の田舎暮らしを夢見て、雪の中に眠るように倒れ込んだかぐやの周りに、今度は月からの使者(女官のような小さい妖精さんたち)が現れます。月が管理している「かぐや姫矯正プログラム」には強制リセットのルールがあるようで、かぐや姫が地球上で死亡しないよう(姫の魂の浄化が完結しないまま肝心の姫が死んでしまえば、姫の魂は行き場を失い、最も下賤な暗黒世界に落とされ2度と月には戻れなくなるんじゃないかと…)常に監視されてるんですよね。月のパワーが全開状態の満月の夜には、時間を逆行させることすら可能なんじゃないかと…。雪上で倒れていた筈の姫は、時間をわずかに遡った時点に送り返され、満月の夜の暴走などなかったかのように都の屋敷で目を覚まします。これが単なる「夢」でないことは、貝合わせの貝が割れていた事でも分かりますよね。
で、この場面に対置されてるのが捨丸との飛翔シーン。捨丸とかぐや姫の恋は一瞬成就するかに見えながら、満月の登場→月の介入により無残に潰される。この飛行シーン、CG処理のPOVなんかもあって、本来ならもっと解放感に満ちた場面になりそうな所なのに、捨丸の決意の危うさ(彼は妻子持ちなんですが、姫はその事を多分知らない。観客だけが知らされている)ばかりが気になって、私にはイマイチ解放感がなかったです。


■人の情けを はぐくみて まつとしきかば 今かへりこむ


<月世界ではタブーとされている地球に憧れたことがかぐや姫が犯した「罪」>だと、最初に書きました。では何故、穢れた地球に心を奪われるなど、あってはならぬ事と月人たち(かぐやの父王ら)が、タブー(禁忌)の厳格なルールを設けてまで地球を“恐れるのか”、その理由についてはまだ書いてません。それをこれから思いっきり妄想します(笑)。

15夜の満月の夜、かぐや姫を迎えにくる月のご一行さまから、阿弥陀如来と二十五菩薩が飛雲に乗り降下する『 阿弥陀来迎図』http://www.chion-in.or.jp/04_meiho/hob/rai.htmlを連想された方、多いと思うんですが、このモチーフと姫の回想シーンに登場していた月の都の様子から、かぐや姫を迎え入れる月世界は「常若(不死)の楽園」ではなく冷え冷えとした「廻る=変化」しない「死」の世界*3じゃないかと想像できます。
記憶除去装置「天の羽衣」を着せられたかぐや姫からは一瞬で表情が消え去り、いかなる感情も顕わさない能面顔の姫が振り向いた先(背後)にある「碧い地球」を眺め、つぅーと一筋の涙を零す。月に戻った姫(の魂)は輪廻転生から解脱した(かのように見える)後、苦しみに満ちた「生」から解き放たれ、生前世界での因縁も一切の不浄との縁が切れて月の世界で永遠に存在するのでしょうか?いいえ、それは否!だと思いたい。

三保の松原の天女伝説(天人女房)は、中国を始め広くアジアに分布してますが、私の知る限りで最も古いものは、その成立時期がはっきりしていない嫦娥伝説http://www.yawaran.net/playground/zhongqiujie.shtmlと、4世紀には成立していた中国の『探神記』の二つです。

作中の天女は、羽衣を着た後(記憶を消された後)でも月世界であの歌を歌っていたでしょう?地球上に残してきた夫や子供に対する想いを完全には消すことが出来ないんですね。静寂と永遠の均衡を保った異世界でも、一度は「人の情けをはぐくんだ」姫は、三保の天女のようにあの歌を残すじゃないかと思うんです。で、それを聞いた稚児の中から、かぐやと同じように地球に惹かれ、矯正プログラム発動→地球に落とされた後、連れ戻されて→歌を歌う者が現れる。それを永遠に繰り返すんじゃないかと。。何故なら、痛みも苦しみもない世界からは「廻る=変化」は生まれないから。
月世界って、好奇心の強い(この世の理を知りたい)お転婆さんには、ものすごーく退屈な所だと思うんだけどなぁ。。

既に決定され組み込まれたシステム、全ての生きとし生けるもの、その生命の変化の可能性を奪うシステムからは何も変化しない。生生流転の儚さを嘆き、自らの愚かさで碧き星を汚辱に塗れさせてしまう事になったとしても、イレギュラーな変化の可能性に賭ける者が現れるんじゃないかと…。
気の遠くなるような輪廻の末、“私たちは明日に向かって血反吐を吐きながら飛び続ける鳥だ”と宣言し、この世の穢れを背負わされた者をその胸に抱き、年老い死の病に侵された老女をいたわる、処女神の如き女児が、辺境の谷間に生まれ「落ちる」かもしれない。その者の名はきっと「ナウシカ」と呼ばれるのでしょう…おぅ、繋がったぞ*4(笑)。


それと、もうひとつ。ホントに下らないことなんですが、どうしても気になってることがあるんです。

①月の都って、月の裏側にあるんでしょうか?月から見た地球は、大きさでは直径で約4倍、面積は約14倍になります。いくらなんでもこれが目に入らないとは考えにくい。

②終盤、月に戻るかぐや姫が振り返った一瞬、青い地球が見えるんですが、この夜は満月。
月と地球を結ぶ直線上にかぐや姫たちは居て、地球から見た月が満月に見える際の月の位置なら、地球は月の新月状態で見えないんじゃないでしょうか。。しばらく考えてたんですが、頭がこんがらがって来ました(笑)。
碧い地球のカットはどうしても必要なので、無理に入れたのかも知れませんが…。

*1:終盤登場する、姫と捨丸の再会シーン(飛翔の場面)、母方が弱小氏族の紀氏で、藤原氏を外戚とする第2皇子惟仁親王(清和天皇)との派閥闘争に敗れ、比叡山麓の小野の里に隠棲した悲劇の親王と、かぐや姫に言い寄る飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原氏の後ろ盾がある帝との因縁を見るのも面白そうなんですが、図書館にでも籠って調べないと、これ以上は無理っぽい。ひょっとしたらパンフレットに載ってるかもしれませんが…。

*2:正確に書くと、姫が望んでいたのは、何も知らずにの山を駆け巡っていた無垢な時代に戻りたいという事。既に失われている時間なんです。何故、そう思ってしまったかは、初潮を迎えた女としての不浄を本能的に怖れたんでしょう

*3:煩悩を捨て去り、穢れを廃し、迷いの世界から完全に離脱後、魂は清浄の地に永遠に止まり続けるって、死んでいるのと同じだと思うんですが(12/6 追加

*4:かぐや姫が眉毛を抜いたり、お歯黒を嫌がったりするエピソードで思い出したのが『堤中納言物語』に登場する『虫愛づる姫君』このお姫さまは宮崎監督『風の谷のナウシカ』のモデルだと言われています