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ウォールフラワー(ネタバレ)/地図にない島をどうやって見つける?

■はみ出し者の島にようこそ

ランチルーム・デビューに失敗した内気な高校生ローガン・ラーマン( チャーリー)。原題の「 THE PERKS OF BEING A WALLFLOWER (壁の花であることの特権)」は、誰にも見られない(誰にも気づいてもらえない)場所から他者を見る、つまり「視る」事に関してだけなら、特権的位置にあります。勿論、ココには彼を見返す視線がない=孤独ではあるんですが…。
チャーリーはフットボールのグラウンドで、大勢の観客が試合に熱狂している中、勇気を出して上級生のエズラ・ミラー (パトリック)に近づきます。ランチルームでの失敗(彼は自分の「位置」を変えずに姉に助けを求めた)から学んだ事はちゃんとココで生かされていると思うんですよ。試合に夢中になっているその他大勢の観客は、チャーリーの事を気にも留めません。透明人間と同じ。誰も彼を見てはいないんですから…。いつもの定位置「壁の花」から移動しても、誰にも見られず、気づかれもせずパトリックに近づけたのは、この時、観客達の視線はフットボールの選手に集中していて、パトリックも観客にも選手からも見返されない唯の「壁の花」だったからなんですね。こうして、彼は「はみ出し者の島」に「居場所」を見出します。
ハイスクール・カーストとは言っても、その頂点だって、底辺だって常に流動していて、高校生活の様々なシチュエーション=舞台によって、構成員もそれぞれの立ち位置もコロコロと変わります。ランチルームを牛耳っているマッチョで粗暴なグループだって、授業中はきっと「壁の花」なんでしょうから…。
一番怖いのは、シチュエーション毎に変わる筈の立ち位置が固定してしまう、あるいは既に自分の「位置」は固定されてしまってるという「呪縛」に囚われてしまう事じゃないでしょうか。。

舞台上で自己演出する、しかもトリックスターとしての立ち位置を不動のものにしているパトリック。『ロッキー・ホラー・ショー』のドラッグ・クィーン、フランク・フルター博士の「仮面」をドギツイ化粧と網タイツ、がっしりと成熟した男の肢体に憑依させ、スクリーン(虚構)の前で、偽のアイデンティティ(パトリックはゲイですけど女装趣味ではない)=虚構を演じる━二重の虚構の狭間にだけ、自分を解放できる空間を見出しているのでしょうか、同性愛者が世間が認知しているありふれた「記号」に迎合し、あえてそれを纏う時に滲む哀しみと、それでも虚構の中に刹那の真実を探ろうとするしたたかさとを併せ持つパトリックの悪魔的な美しさにはうっとりしました。もしこんな息子がお買い物に付き合ってくれてなら、私、何でもホイホイ買ってあげちゃいます。

OPのタイトルバックに流れていたピッツバーグの風景を捉えたショットが印象的だったんですが、最初、カメラは進行方向の逆、つまり「後ろ向き」から、中間では矢のような速さで飛び去るトンネル内の照明(トンネル側面の壁に取り付けられたもの)へと、それがいつしか進行方向(出口に向かって)へと変化します。
青春真っ盛りの高校生活って、長ーい、長ーいトンネルの中にいるようなものなのかも知れない。暗闇の中を進むではなく、残酷なまでの「明るさ」で照らされている空間。加速するスピードが、その時間感覚を麻痺させ、一瞬の刹那に消えゆく時間が逆説的にその永遠性だけを記憶に刻みつけていく。そして無限とも思える時間の流れがふいに途絶え、出口が忽然と現れる。
サム(エマ・ワトソン)やチャーリーが荷台で感じていた刹那の高揚は、一方向にしか流れない時間だからこそ得られる体感でしょう。
とっくに“17歳になるということがどういうことか忘れてしまった”おばさんには、荷台に乗る事より、トンネルを通り抜けた先、視界に飛び込んでくる、ありふれた風景の方が俄然、染み渡りましたね。
歳を重ねるという事は、ひりつくような青春時代の痛みも既に相対化済みなわけで、本作とドンピシャのタイミングで出会い、グサグサ突き刺さる痛みをリアルに感じたであろう若い人がちょっぴり羨ましいです。まぁ、いろいろ鈍感になっちゃってますから…ファーストキスのトキメキなんて、もう思い出せないくらい(笑)。

黒髪に黒い瞳、エズラ・ミラー の妖しい魅力。今後も大注目株です。
『3時10分、決断のとき(ジェームズ・マンゴールド監督)』から注目していた ローガン・ラーマン 、若い頃のクリスチャン・スレーターにちょっと似てるんですが、繊細な演技は相変わらず上手いですね。
意外に逞しい上半身のエマ・ワトソン 。優等生ハーマイオニーのイメージからの脱却は、本作で一応、成功したんじゃないでしょうか。