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愛、アムール(ネタバレ)/水音が変わるまで

■Is anyone there
ファニーゲーム」「ピアニスト」「隠された記憶」「白いリボン」等々、人間の内面に深く切り込んで、人目からは隠しておきたい暗部まで引きずりだしておきながら、しれっと涼しい顔をなさいますミヒャエル・ハネケの新作です。フィックスの多用とカットの少なさ(127分のフィルムで、総カット数は236。ワンカットの平均的長さは約32秒)*1、いささか長すぎるカット割りは、親密な関係を結んできた老夫婦の生活リズムと重なり、その時間の流れに慣れていない部外者には、居心地の良くない疎外感となって跳ね返ってくる。イギリスに住む娘エヴァ(イザベル・ユペール)が最初に登場したシーン。固定カメラは娘を映すだけで、会話は成立しているのに父親の表情は見えない。やっと切り返しが始まるのは、本題である母の病状に話が及んでからです。両親に対する愛情があっても自分の生活で手一杯な娘と、その娘の立場を理解している父親との微妙な距離感がよく分かりますよね。劇判が殆ど使用されていない(エンドクレジットにも音楽はありませんでした)静謐でありながら、時折現れる音の数々(衣擦れの音、足音、窓が開かれると流れ込んでくるオフフレーム=外界の音、窓が閉ざされると同時に生まれる静寂の音の昏い懐かしさ、雨音、呼吸音、嚥下する音)に意識が吸い取られるような感覚になりました。生(命)の証が様々な音の中にひっそりと息づいているんですよね。
夫ジョルジュが妻アンヌ(エマニュエル・リヴァ)の異変に最初に気づくシークエンス。老夫婦だけの暮らしは、互いが発する生活音がそれぞれの無事を確認できる手段になっているような所があって、一瞬で彫刻にでもなったような只ならぬ妻の様子に、気が動転したのか、水道を出しっぱなしにしていた夫の心許ない様子に思いっきりハラハラしちゃったんですけど、やがてその水音が途切れ、数分間の記憶を失った妻の異常を、今度は、ティーカップから溢れるお茶(脳梗塞の発作で上手く注げなくなってる)で表現する。畳み掛ける様に水音を重ねていく鮮やかさはお見事。夫の脳裏(記憶)の中に楔のように打込まれた、蛇口から流れ続ける「水(水音)」のモチーフは、この後、何度も反復、変奏されて登場します。面白かったのはアンドレイ・タルコフスキー作品を想起させるジョルジュの悪夢のシークエンス。アパートの一室で、妻を介護するために娘エヴァさえも遠ざけてしまった夫の心象なんでしょうか、部屋の外の階段には木が打ち付けられて誰も通れなくなっており、ぽたりと水滴の落ちる音が響く廊下には水が数センチ溜まってました。背後からジョルジュを襲う手は、指の太さから考えても男のモノ、つまりこの閉鎖した空間で彼を追い詰めているのは、彼自身なんですよ。
圧巻だったのが、認知症の妻に食事を食べさせるシーン。好物(なんでしょうね)の桃の果汁を混ぜても中々食べようとはしない妻に対して夫が苛立ってしまうのはよく理解できます。嚥下するだけでも相当な時間がかかる。それでも食物を体内に取り込んだ刺激からか、次の一匙の時には嚥下するスピードが少し早くなってます。妻のわずかな変化もこの夫は見逃さないんですね。この辺りの、ぴったりと息の合った繊細な演技はまるで本当の夫婦みたいでした。それだけに、後日、夫が水を飲まない妻を叩いてしまったのには心が痛みます。無理にでも水を飲ませようとしていたのは、脱水状態になったら、即、入院になってしまうから。二度と病院には戻さないと妻と交わした約束を守れなくなるのを夫は怖れてるんです。
平穏だった老夫婦の生活を切り裂いた「水音」は、終盤、夫が妻を殺した後、変化します。幻覚での光景、死んだ妻がキッチンに立つ場面に流れていた水音には、猛々しさのない、とろりと微睡んだような温かさがありました。ぽちゃり、ぽちゃりと優しく響く水音を聞き“コートを着ないの?”と問いかける妻の声に誘われるように、いずこともなく姿を消した夫(私は自殺したんじゃないかと思ってます)。この時のジョルジュがはたして正気だったかどうかが、ちょっと怪しいんですね。ベッドから立ち上がろうとしてしりもちをついてしまうジョルジュの肉体的な衰えははっきりしてます。彼の白い肌着は何日も着替えていないみたいで、襟周りが垢じみてシミが幾つかついてましたし…。妻殺害時の唐突な変化もそうなんですが、彼の決断が、妻を愛した故に彼女の尊厳を尊重した結果なのか、外界を遮断し、閉ざされた空間で妻との約束に縛られてしまった老人の静かな狂気なのかといった曖昧な領域があり、安易な回答を用意しないハネケらしい周到さを感じます。枕を押し付けられた妻が不自由な体をバタつかせて苦しみながら死んでいく生々しさは、悲しくも美しい夫婦愛の物語としてすんなりとは回収させてくれない。正気だったかどうかなんて、本作ではあんまり意味のない事なのかも知れませんが…。

■鳩と絵画
新たに雇ったヘルパーさんが、アンヌを虐待しているのでは?という疑問を持ったのでしょう、妻の世話をしている様子を盗み聞きした夜、室内に入って来た鳩を追い払ってました(勿論、ジョルジュの幻想でしょうけど)。この時の鳩が意味するものは妻との生活を脅かす、外からやって来る部外者でいいと思うんです。で、妻殺害後に現れる鳩の方は、一体何を意味するのか、イマイチ茫洋としています。冒頭、消防隊がアパートに入った時、全てのドアは塞がれ目張りまでされていたのに、唯一、妻の亡骸が横たわる寝室の窓は開いていました(消防隊員の会話に出てきます)。夫が二度目の鳩の幻覚を見た後→キッチンでの妻の幻覚なので、脳梗塞の発作で身体の自由を奪われ、認知症も併発し人としての尊厳まで損なわれた妻を「解放」し、自由になった妻の魂が寝室の窓から飛び立ち、鳩となって、再び夫の下を訪れるという事なんでしょうかねぇ…。
もう一点、作品中インサートされていた絵画の事。ハネケの御両親が所有されていた絵だそうですが*2作者が誰なのか、絵の主題がなんなのか、さっぱり分からなくて…。どなたがご教示いただければ幸いです。

*1:http://www.imdb.com/title/tt1602620/trivia?ref_=tt_trv_trv

*2:http://www.imdb.com/title/tt1602620/trivia?ref_=tt_trv_trv