君と歩く世界(ネタバレ)/骨を砕いて血の味を知る

■語りかける肉体
クレイグ・ダヴィッドソンの同名のショートストーリー集「Rust and Bone」をジャック・オーディアール監督が映画化。ショーの最中に起きた事故によって膝から下を失ったシャチ調教師ステファニー(マリオン・コティヤール)と、社会の底辺で生きる他なかったアリ(マティアス・スーナールツ)が偶然出会い「肉体」を通して、それぞれが「壁」を打ち破っていくお話です。車椅子生活となったステファニーを、引き籠っていた部屋から陽光溢れる浜辺に引っ張りだし、何の衒いもなく“泳ぐか?”と声をかけるアリ。これをきっかけに、彼女は事故以降の肉体との関係を新たに結び直していく。浮力が働く「海」では、地上では得られない、人の手を借りずに泳ぎ回る(動ける)自由があります。変幻自在な水の心地よい感触は、萎縮してカチカチに凝り固まった感覚を解放してくれるでしょうし…。煌めく光の中で泳ぐ彼女の姿はひときわ美しいですね。身障者に対する気遣いではなく、人が生きていく根源的な力を与えてくれるアリとのコミュニケーションはステファニーにとって「シャチ」の調教(←これも一種のコミュニケーションの手段です)みたいなものなんでしょう。最初の海で「指笛」から始まり、携帯での連絡もわずか3文字だけでした。
やがてふたりは性交渉も持つようになります。道具としての「肉体」に徹する事が、半ば眠っていた感覚や快楽を呼びさましていくんです。彼女、太ももにそれぞれ「右」「左」とタトゥーを入れてましたが、多分、自分の脚をボクシングのグローブに擬えているじゃないかと思うんですね。キスはしない約束を反故にし彼女からキスを求めるようになったり、正常位から騎乗位へと*1、感覚器官(肉体)からインプットされる情報(刺激)が、女としての情動や感情を動かし始めます。素晴らしい脚をセクシーなドレスで包み男たちを弄ぶ、「見られる」快感だけは受容しても決して身体は許さない「氷の女」ステファニーの主戦場だったナイトクラブで、彼女の事をほっといて行きずりの女と踊るアリを見て、以前のように踊る事の出来ない自分の脚をそっとコートで隠くす。運悪くそんなタイミングでナンパした男性はお気の毒ですが…。義足を身につけることになった彼女は、自分の身体に不可欠な「道具」が既に肉体の一部として機能しているのに、彼女と出会った人たちは身体の欠損ばかりに囚われ、その向こうにあるものを見ようともせず、盲目的に同情を寄せる。自律していた筈の彼女の肉体は、他者の視線に晒された途端に「異物」となってしまう。勝気で誇り高いステファニーにはそれが我慢ならないんです。安易な同情より、アリの息子サムのように、肉体の一部に金属を埋め込んだ「おもちゃ」の身体を持つステファニーに目を輝かせて見つめる、純粋であるが故にある意味最も残酷な好奇心の方が余程心地良いのでしょう。義足を覆い隠していたパンツは、後半、その一部が裾から覗くクロップ丈へと変わって行きます。既に肉体の一部と化した道具を隠そうとしなくなるわずかな変化で、彼女が世界と対峙する方法を見出した事を示してますよね。
■氷の壁をぶっ壊せ!
事故後、シャチのプールを訪れたステファニーは、水槽の「ガラス」越しにシャチとコミュニケーションをとっていました。もうシャチ君がメチャ可愛かった!これは彼女にとってお別れの儀式だったんでしょうね。硝子の「壁」を挟んで隔てられた両者の距りは埋めようもありませが、おそらく、事故以前には彼女の支えであったシャチ君に“私はもう大丈夫だから”と伝えたかったんだと思います。だって「本能」が服を着て歩いてるようなアリ=新たなシャチの調教(コミュ二ケーション)が待ってるんですもの。アリは、ストリートファイトで賞金を稼げる鍛え抜かれた肉体が凶器となってしまう事を自覚できていない男です。父を慕う息子に手をあげてしまう精神的な未熟さは、幼少期に他者との関わりの中で愛情を与えられず、他者とどう接して良いかを学んでは来なかったからでしょうね。彼はその拳には似つかわしくない未熟さで、リーマンショック以降、底辺の労働者を襲った経済的苦境、明日への糧をひねり出すことで精一杯な姉たちの暮らしを砕いてしまいそうになります。
行く当てもない彼ら親子を、一旦は迎え入れてくれたコミュニティから遁走した後、彼は長距離トラックの運転手で糊口をしのぎながら、格闘家のトレーニングセンターで訓練する日々を送ってました。南仏アンティーブの強烈な陽光から一転、雪に覆われた銀世界のコントラストの鮮やかさはお見事!。水墨画のように森閑とした静謐な世界は、彼の精神的な成熟を予感させるのに似つかわしい舞台です。心温まる親子の再会、赤いウィンドブレーカー着て氷上で遊ぶサムの愛らしい姿が見えなくなった瞬間、思わず“あっ!”っと声が出てしまった(笑)。アリは息子を殴った拳で、今度は息子を救う為に、両者を隔てる分厚い氷=壁を無我夢中で割っていきます。骨は折れ、傷口からは血が噴き出しても諦めずに何度でも拳を繰り出す姿には、思いっきり揺さぶられました。病院での手当の後、ボクシングのグローブのように包帯を巻かれた彼の拳は、コントロールできない暴力性は消え、サムの小さな手を握りしめ、息子に「語りかける肉体」として存在しています。そんな親子の姿を柔らかな光が祝福してましたよね。属する社会や家庭の中で、情動や愛情といったものを実感できずに育ち、親密な愛情に結び付かないまま道具のように存在する肉体だけを武器に世界と闘ってるつもりだったアリが、社会的地位や身分や属性を身に着けてなくても、それでもその人間の存在が無条件で受け入れられ承認される、最も小さい単位の社会=家庭を失わずに済んだ最大の功労者は幼い息子サムなんですから。。
身体(物体)と精神、この両者を完全独立したものとするデカルト的な心身二元論には、いずれは滅びゆく肉体より、神と共に永遠に存在する魂(精神)を称揚するキリスト教的な価値観が大きく影響してるのでしょうが、物体的要素を全く含まない純粋な意識も、精神的な要素を排除した機械的な物体(身体)もあり得ない、身体と精神はそれぞれに干渉しあう相関抜きには語れないです。事故による身体の欠落から、ステファニーの意識は肉体へと向かい、セックスとボクシングという肉体そのもののぶつかり合いを通して、本来の生命力を取り戻していきます。邦題の甘さからはちょっと想像できない、ハードボイルドな作品でした。

*1:この辺り、女心の変化はかなりベタというか、定石過ぎて意外性はなかった。ボクシングとの対置に引っ張られちゃったのでしょうか