コズモポリス(ネタバレ)/白いリムジンの一日

■発砲スチロールの神を棄てた日
若くして成功した投資家エリック・パッカー(ロバート・パティンソン)の一日を描いた作品。この日、何故か床屋に行きたいと思ったエリックが、大統領の訪問や、有名ミュージシャンの葬儀、デモを繰り広げる大衆らで大渋滞したニューヨーク市内を、人が歩く程度の速さでしか進めないリムジンで移動。当然ながら目的地にはなかなかたどり着けないんです。デヴィッド・クローネンバーグ 監督は、ドン・デリーロの同名小説『コズモポリス』をわずか6日間で脚本に仕上げたそうなんですが*1、本作のセリフ、不安になるくらいちっとも頭に入ってこなくて(笑)。詩的で哲学的、観念的な言葉の断片が浮遊して、なかなか物語の核心=目的地に到達してくれません。
差異こそが利益を生むポスト産業主義社会で、金融知識や情報を駆使し、時代の寵児にまで上り詰めたエリックの「機械的な身体=モノ」があのリムジンなんでしょうね。リムジンの中に入ってくる人達は、本質的な意味での「他者」ではないと思います。彼の王国を支えるシステムの一部、情報や外部記憶(データ)装置みたいなもの。超ハイテクリムジンの中で行われるセックスや排泄も、身体の延長上にあるもので、ナルシスティックな彼のアイデンティティの分身たる、全ての事象が均衡状態(釣り合っている)シンメトリーな概念と、現在という時間、空間にしか存在できない生身の身体が合体したイコンなんでしょう。シンメトリーな彼の王国は、コンピューターシステムへの侵入、元相場の読み違えから、破産(破滅=終末)へとじりじり向かっていくんですが、リムジンの外部=他者の世界との関係性の薄さ、特に奥さんのエリーズさんは一体なんだったんでしょう?前作『危険なメソッド』でユングの奥さまを演じていたサラ・ガドンが、今回は不思議ちゃん全開で(笑)、途中までこの人はエリックの幻想じゃないか?って思ってましたもん。ふたりがデート(デートと言えるかどうか)日本食レストランのがらんとした空間には、拭い去りがたい孤独がありますよね。大富豪で、何代にも渡る上流階級(いわゆるオールド・マネークラスでしょうけど)がレバレッジのニュー・マネーと結びつく。この二者の関係性には、全てを把握するものがひとりも存在しない巨大なシステム(資本主義)内では、新たな概念が生まれても権力構造はそう容易には変化しない現実が透けて見える気がします。破産したエリックを経済的には支えても良いけど、夫婦関係は白紙にしましょう宣言は、彼女の酷薄さが滲み出ていて、好きでしたが。。
エリックは、クリームパイテロリストのアンドレ・ベトレスク(マチュー・アマルリック)、かつてエリックの下で働いていたベノ・レヴィン(ポール・ジアマッティ)、二人の男から付け狙われます。アンドレも、べノも行為自体が自己目的化しているんですが、アンドレにはその自覚があるせいか、飄々とした軽さがあるんですよね。大統領を狙うより遥かに困難なエリックを標的にし、パイを投げつける瞬間をしっかりとメディアに記録させて、全世界に向け発信する。現実よりも、反復され、消費される映像の方に価値を置いてる人間です。動画等を通して瞬時に配信されるインターネット空間では、情報という形で「私」を拡散させることが可能ですから…。金融工学の世界で、同時にあらゆる場所に遍在し権力を握ったエリックのイメージと、ネットの情報の海で拡散するアンドレのイメージには共通点があると思います。拡散は常に密度を失うーやたらと長いリムジンの車体と同じく、薄く引き伸ばされる運命にある事も甘受しているのでしょう。
もう一人のテロリスト、ベノの方はアンドレのような軽さとは無縁。不遇だった自分の人生をエリックを殺すことで救おう、意味あるものにしようと考えてる人物。面白い事に、エリック同様、彼の前立腺が非対称だったんです。本作、非対称のもの(トラ刈りヘア、パイを投げつけられた顔半分等々)結構登場するんですが、エリックの万能感を支えていたシンメトリーな世界は、非対称という、彼にとって馴染のない概念に浸蝕されていくんですね。医者から告げられた前立腺の非対称は、彼の身体の奥深くに隠されていた不可視のもの。言語上では存在しても、それを自身の目で見ることはかなわない。終盤、べノと対峙した際、自殺を思い止まって自分の手を撃ったのは、「非対称を可視化」したんだと思っています。現実を規定する世界認識の変容がスティグマのように肉体(身体)に刻印されるのは、クローネンバーグ 作品の特徴ですよね。肉体の変容は身体感覚の可視化と同期して、精神にも影響を及ぼします。エリックの手は、非対称のイコンとして生まれ変わったのでしょうか、べノによって新たな概念も意味なし!と却下されてるように思うんですが…。
面白かったのが、資本主義を、世界に憑りついている「幽霊」と表現していた事。モンスター(化け物)じゃないんですよね。生と死の狭間で、何度でも回帰してくる幽霊に取り付かれた社会は、無限に増殖するネズミが、皮肉込みでカオスを扇動する一派の新たな通貨となってました。ここはハイパーインフレを想像しちゃいました。オープニングとラストに登場した絵画は、抽象表現主義ポロックとロスコだと思うんですが、絵画を制作中の作家の身体的行為、行動の軌跡として捉えるアクション・ペインティングのポロックと、背景や前景、中心も存在しない均質性、平面性に徹したロスコ、絵画に詳しい方なら、違ったおもしろい視点が見つかりそう…。

*1:http://wired.jp/2013/04/06/david-cronenberg-cosmopolis/2/