風立ちぬ(ネタバレその2)/スッカラカンのフルメタルの世界中どこにもない飛行機

■時よ止まれ、汝はいかにも美しい

「スタジオジプリ絵コンテ全集19 風立ちぬ 」を読み終えました。映画本編と一番変わっていたのが、ラストシークエンス。使用された絵は同じ(一か所だけ記憶があいまいな所があるんですが)なんですが、セリフが変更されています。以下、絵コンテ集に載ってるセリフの変更、追加リスト及びコンテから引用します。<絵コンテ>→<映画本編>の順で記します。まだまだ公開が続くでしょうし、どうしようかなぁと迷ったんですけど、ココを書かないとゲーテの『ファウスト』には触れられないので、どうかお許しを(ぺこり)。

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(カプローニ):スッと振り向き二郎に声をかける“やあ来たな、日本の少年“
(二郎):ここは最初にお会いした草原ですね→ここは私たちが最初にお会いした草原ですね
(カプローニ):我々の夢の王国だ
(二郎):地獄かと思いました
(カプローニ):ちょっと違うが、似たようなものかな…君の10年はどうだったね→ちょっと違うが、同じようなものかな…君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね
(二郎):終わりはズタズタでした→はい。終わりはズタズタでしたが
(カプローニ):飛行機の一群が現れる場面“あれだな“→国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは
ゼロ戦のパイロットと挨拶を交わした後、10機の飛行機が上昇していく
(カプローニ):美しいな。いい仕事だ
(二郎):一機も戻ってきませんでした
(カプローニ):征きて帰りしものなし
(カプローニ):飛行機の宿命だ→飛行機は美しくも呪われた夢だ。大空はみな呑み込んでしまう
(カプローニ):君に会わせたい人がいる
草原に日傘を差した菜穂子が現れる
(カプローニ):ここで君が来るのを待っていたんだ→ここで君が来るのをずっと待っていた
(菜穂子):あなた、来て→あなた、生きて
(カプローニ):君のために祈っていたんだ→なし
(菜穂子):きて→生きて
二郎、2度うんうんと頷く。涙。喜びと安堵があふれる菜穂子のUP→日傘、空高く舞い上がる→風となって溶けていく菜穂子→草原に残された日傘もふっと消える
(カプローニ)彼女は今、安心していくべきところへ行ったのだ→行ってしまったな。美しい風のような人だ
二郎、少年の顔になり、菜穂子が去った方を見つめて“ありがとう、ありがとう“と2回つぶやく。二郎の顔だけのカットなのでカプローニとの身長の比較はできない。→映画でも“ありがとう“と2回呟いてましたが、少年の顔になったか覚えていないんです。
(カプローニ):わしらも行かねばならんが、ちょっと寄ってかないか?いいワインがあるんだ。積もる話を聞こうじゃないか(この台詞の時は、二郎の身長は、カプローニより高くなってる。つまり成人した二郎)→君は生きねばならん。その前に寄ってかないか?いいワインがあるんだ

※このシークエンスのカプローニはAパート(カプローニは若い頃の顔)と絵コンテに指示がある。

絵コンテと映画のセリフを比較すると、二通り考えられると思うんです。
①絵コンテ版  
菜穂子のみならず、二郎も既に死んでいる。“地獄かと思いました“は比喩ではなく、この草原が「煉獄」*1であり、菜穂子は『ファウスト』のグレートヒェンのように昇天する。一瞬だけ少年の顔になるのは、『崖の上のポニョ』のグラン・マンマーレ同様、母性による浄化。デウス・エクス・マキナのごとく母性が救済を担うのはマザコン宮崎監督の特徴なので、ココで、あっ、オッカサンなのねと思ってしまいました(笑)。先に昇天した菜穂子=グレートヒェンが、天上の祈りで、他の天使軍団と一緒に二郎の魂の天国入りを手伝う予定になってる。でもこれだと、カプローニ(メフィスト)の天国入りだけは絶対にありえない。“わしらも行かねばならん”のセリフに含みが多いですよね。二郎とカプローニが分断されないのなら、両者はこの先、煉獄から本物の地獄へと向かうという事じゃないかと。絵コンテでは丘をふたりで下って消えて行きますし…。
②映画版  
二郎は死んでないですよね。何せ「生きろ」と言われてるんですもの。彼の罪過の念は菜穂子に「生きて」と言われる事で昇華し、自身の存在を肯定されてる。菜穂子も失い、飛行機製作の夢(カプローニとの別れ、分離→“わしらも行かねばならんが“がない)を失っても、それでも尚、生き続けろと。ここは意見が分かれるところだし、面白い解釈がありましたら、どうぞ、お聞かせください。

ゲーテの戯曲『ファウスト』*2をまんま本作に当てはめられるとは思ってはいないんです。二郎の性格とファウストが違い過ぎて…。唯、色々引っ掛かる所があって『ファウスト(新潮文庫版)』を読み直しました。韻文ですからねー、もう読みにくいったらありゃしない。で、ちょっと面白い事に気づいたんです。 ファウストが“時よ止まれ、汝はいかにも美しい“といった瞬間にファウストの魂はメフィストのものになるはずだったんですけど、本作でその瞬間はどこに当たるんだろうなぁと。。私は、三菱の重役、海軍との会議の後に開いた自主勉強会で、同席した若い技師らスタッフの頭上を、二郎の理想の飛行機(のイメージ)が通り抜ける瞬間だと思うんです。本作では、最後の試験飛行(菜穂子が黒川の家を出た日)で飛んでたのは九試単座戦闘機(絵コンテでは)で、現実パートでは、完成したゼロ戦は一度も登場していない。この勉強会でスタッフを前にして、二郎は“唯、ちょっと重くなるんだ。機関銃をのせなければ何とかなるけど“と、冗談めかしてますが、あれは半ば本気じゃないかと。二郎の夢は美しい飛行機を作る事。カプローニに“創造的人生の持ち時間は10年“と言われてます。菜穂子(亀)には病による死(アキレス)が背後から追ってくる、二郎(亀)には創造的時間の限界(アキレス)、どちらも限りある「時間」の中で“力を尽くした“んですよね。

ドイツのユーカンス社視察を契機に本庄と二郎の飛行作りの道は分かれて行きます。本庄は既に先行している技術を模倣することで「アキレス」を目指した。二郎は“スッカラカンのフルメタルの世界中どこにもない飛行機“=ゼロ戦で、小さくとも「亀」になる道を目指す。貧乏国が貧乏国から脱出するために、国を挙げて戦闘機製作に邁進していった時代。そのお陰で二郎たちは飛行機作りが出来る。大いなる矛盾ですけど、主体の中に矛盾を抱え込んで、物理的時間を心的時間に転化させ、矛盾そのものを生きる、圧縮された時間の濃密なエキスを蕩尽する=豊かな時間を持っているのが二郎&菜穂子組です。煙草のシーンなんてその典型でしょうね。菜穂子は二郎に対して“手を繋いでいて“ではなく“手を下さい”と言ってるんです。仕事をしている二郎を見るのが大好きで、妻らしいことを何一つできなくても二郎のそばにいられる時間の方を選択した彼女が、計算尺を扱う二郎の仕事の邪魔をしてる(笑)。二郎は二郎で、結核患者の前で煙草を吸う。ヘビースモーカーの宮崎さんらしいエピソードですけど、ココには倫理を軽く超えてしまう強度があります。薄く引き伸ばされ、だらだらと続く生よりも、短くも濃厚な時間を持つことが出来た二人の在り様を否定できないんですよ。

宮崎アニメの登場人物には目に見える形で葛藤は中々生まれません。一瞬の逡巡の後、葛藤の萌芽を速やかに行動へと転化させてしまうんですね。黒川が二郎と菜穂子の結婚を“君のは愛情ではなくエゴイズムではないか“と詰め寄っても、二郎が“私たちには時間がありません。覚悟してます“と二郎の「覚悟」を聞いて後、二人の結婚を認めます。黒川の倫理と二郎たちの選択の間で生じた葛藤は、速やかにふたりを祝福する行動=結婚式へと転化する。何故黒川が二人の結婚を許したのかの説明をクドクドと行うより、行動へ転化の鮮やかさで魅せる。これはもう宮崎マジックですね。何度見ても私はココにやられてしまいます(笑)。

矛盾を矛盾としたままで行動するのは「大人」ではなく子供だけに許された特権です。大人が矛盾した行動をとる時にはそれなりの言い訳が必要となる。本庄が自己の抱える矛盾を明確に言語化していく理由はココにあると思うんです。本庄自体、何ら矛盾の解決はしてないんです。唯、彼は矛盾がある事を自ら認めることで、それを自覚できている大人である事を証明しているに過ぎない。言語化することで自らが背負うべき責任の所在を明確にしてるんです。でも二郎はそれを口にしない。“牛がいる”とか、特高に後を付けられている時でも、二郎の幼さ=イノセントを上司たちは笑い飛ばしてます。二郎が幼い事を笑いに昇華して、その本質は決して追及されない。だから二郎はイノセントの皮を被ったまんまの傍観者にしか見えない。天才ゆえの根源的な欠落(大人になれない男)を前面に押し出すことで、二郎は大文字の歴史からの審判を執行猶予されてるですよね。その意味でも、飛行機バカで自身の葛藤をなかなか表に現さない二郎が、飛行機製作の道を目指した時点で既に破滅へつながる宿命を受け入れていた事がとてもよく分かる絵コンテ版のラストの方が良かったんじゃないかと、今は思ってます。
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[映画]風立ちぬ(ネタバレ) http://d.hatena.ne.jp/mina821/20130724/1374660799

*1:天国に入る前に、現世で犯した罪に応じた罰を受け、清められる場所

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88