半藤一利と宮崎駿の「腰ぬけ愛国談義」

8/3に放映された『SWITCHインタビュー 達人達(たち) 宮崎駿×半藤一利』と一部内容が被ってるんですが、軽めの内容でサクサク読めました。
半藤一利氏と言えば、文藝春秋編集者時代に大宅壮一名義で発表された『日本のいちばん長い日』の著者である事や、親交の深かった司馬遼太郎氏との対談を真っ先に思い出すんですが、半藤氏の義祖父が夏目漱石である事*1、宮崎氏が大の漱石好きで、漱石話に結構な枚数を割いています。以下、映画『風立ちぬ』に関する所を少しばかり紹介しますね。

(半藤):聞く所によると、宮崎さんご一家は、昭和19年(1944)に東京文京区から栃木県鹿沼に疎開されたと。お父さんがお兄さんと一緒に「宮崎航空機」という会社を経営なさっていたとか。
(宮崎):叔父が社長で親父が工場長でした。飛行機工場と言っても、零戦の風防と夜間戦闘機「月光」の、翼の先の組み立てだけをやっていた、まあそんな程度の工場なんです。ですから飛行機工場というほどの大それたものじゃなく、町工場の延長です。熟練工はみんな兵隊にとられていて、未熟な人たちを集めてやっていますから、難しいことなどできるはずないんです。
(半藤):作った部品の納入先というか、いわゆる元請け会社は中島飛行機ですか
(宮崎):そうです。父に言わせると、当時は工員さんが1500人いて……中略……でもきっと「1500人にしようと思った所で戦争が終わった」というようなあたりが、本当の所だと思います。大体親父はそういうタチですから。僕は親父の自慢話をあまり真に受けてません。

(宮崎):堀越二郎が昭和9年に試作した「九試単座戦闘機」、それが後の96式艦戦になりました。ずいぶん形が変わるのですが、96式艦戦、これは綺麗ですね。ぼくはこれが一番綺麗に違いないと思っています。

(宮崎):ユンカース社の場面は、堀越の何年か後に行った人の記録が残っていて、それを読むと、日本から来た技術者が本当にひどい扱いをされた事が分かります。まずもって工場の中は見せてもらえない。……中略……それが日独伊三国同盟(昭和15年締結)後の戦争中の話ですからね。ユンカースはつまり技術を隠した。
(半藤):堀越さんがドイツに行ったのは何年ですか
(宮崎):昭和4年から5年にかけてです。

(宮崎):少年時代の堀越二郎の夢に出てくる草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、「あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ」ってスタッフに言っていたのですけれども。
僕は行った事もありませんし、大体今の人はそんな地名さえ知りませんね。僕の想像で書いたホロンバイルですが

半藤氏のバルチック艦隊のお話とか、宮崎氏が零戦を描きたくなかった理由(これがもう、おかしいんです)源田実氏についてもう少し触れて欲しかったりもしましたが、まぁ無理でしょうね。。

*1:半藤氏の妻、末利子さんは、漱石の長女筆子さんの娘