インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌(ネタバレ)/忘れ去られるために、あの場所に還る

The Incredible Journey 三匹荒野を行く


ホメロス作と言われている古代ギリシヤの長編叙事詩『オデュッセイア』の壮大なパロディ、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の名を持つ*1茶トラのネコちゃんに導かれ、売れないフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)が、ニューヨークからシカゴへ、そして再びグリニッジヴィレッジに戻るまでの物語です。
英雄オデュッセウスが祖国イタケに帰還するまでの漂流生活を、ユダヤ系アイルランド人のブルームをオデュッセウスに、教師スティーブンをオデュッセウスの息子テレマコス、ブルームの浮気者の妻モリーが、オデュッセウスの貞淑な妻ペネロペイアにそれぞれ擬え、10年もの歳月をわずかダブリンの一日に圧縮してみせた小説『ユリシーズ』のあまりの難解さに、マッハの斜め読みで一気に済ませちゃった苦い思い出がありまして(笑)、胸を張って書ける事はほとんどないも同然なんですが、本作を観て『オデュッセイア』やジョイスの『ユリシーズ』に何も触れないのもおかしなものなので、ちょっとだけ書いておきます。


『オデュッセイア』で描かれる、トロイア戦争の英雄の知力と神々の御加護により数々の試練を乗り切り祖国イケアに帰還するまでの道程には、息子テレマコスが父を探す探索の旅が挟まれていたり、父と息子が協力して留守宅に図々しく押しかけるペネロペイアの求婚者達を成敗したりと、異なる文化の結節点として「父と息子」の物語が機能している、ヘレニズムとヘブライズムの親和性の高さは言わずもがなですが、『ユリシーズ』に登場するブルームは智将オデュッセウス像とはかけ離れた小市民的人物で、ホメロスのオデュッセウスが祖国に帰還できないように様々な妨害を受けるのはポセイドンの怒りをかってしまったー他律的な要因であるのに対して、ジョイスのブルームは、妻モリーが浮気してるんじゃないかとの疑いを持っており、間男ボラインが自宅を訪ねて来るのを制止できずに(妻にゾッコンなんでしょう)、代わりにブルームの方が家を空け、ダブリン市内を彷徨うんです。不承不承ではあっても彼の「旅」の動機は自律的なんですね。「彷徨えるユダヤ人」ブルームの長い一日は、疑似的息子のスティーブンとの一瞬の邂逅はあるものの、常にボラインの影がつきまとい、図書館で危うく鉢合わせしそうになったり、ホテルですれ違ったりした後、悪夢のようなひと時を過ごし、モリーの傍らで無事眠りにつく━故郷への帰還までがヘブライ典礼暦に擬えてあり、当時、イギリスの植民地状態であったアイルランドに対するジョイス自身の望郷の念は中々、複雑そう。。


コーエン兄弟は過去にも『オデュッセイア』を元ネタに『オー・ブラザー』を制作しており、ジョン・グッドマン演じる片目の大男がキュクロプス、盲目の予言者、「屋根の上の乳牛」はトリナキエ島のヘリウスの牛等々、プロット上の大ネタから小技の効いた擽りまで多岐に渡って網羅してありましたが、本作でも『オデュッセイア』の冥府行きに相当するような、この世のものとも思えない、幻想的というより別の異界に足を踏み入れたんじゃないかと思えるシークエンスがありました。
取り違えたメスネコを抱え、ヤク中で尊大、杖でデイヴィスを突くジャズ・ミュージシャンのローランド・ターナー(ジョン・グッドマン)と詩人ジョニー(ギャレット・ヘドランド )との「The Incredible Journey(三匹荒野を行く)」編━ガソリンスタンドの壁に咥え煙草でもたれ掛るジョニーのフォトジェニックなショット、増えすぎた体重を長年支え続けた膝を庇うように杖でヨチヨチ歩くローランドの後ろ姿、人けのないレストランのトイレでヘロインの過剰摂取でぶっ倒れたローランドを後部座席に押し込んでの旅=漂流は本作の白眉でしょう。


フロントガラスにはりついた雨つぶが車のテールランプの反射で「血」のように赤く染まり、心臓の鼓動のように聞こえるワイパーの連続音を伴奏に、ジョニーがパトカーに連行されドライバーのいなくなった車中に満ちる不穏な空気。老いたミュージシャンと、取り違えられたネコを置き去りにする、世界中のネコ好きを硬直させ、一瞬で敵に回す(笑)ネコちゃんのアップを映した後、シカゴでのオーディションの際、バド・グロスマン( F・マーレイ・エイブラハム )が予言者ティレシアスの御神託のように、“金の匂いがしない”ルーウィン・デイヴィスに“相棒とよりを戻せ“と助言を授けます。


ニューヨークまでの帰路、ホメロスの『『オデュッセイア』なら、別れた女と子供の住む「アクロン」がオデュッセウスを留め置く「カリュプソの島」となる所を、暗闇に浮かび上がる街の灯を赤く滲じませ、禍々しくもこの世ならぬ美しさで、一瞬のうちに過ぎ去ってしまう車中からの風景として、時の儚さを刻みつける。バンパーに血を残し林に消えていったネコとの刹那の邂逅に、この旅の主題がルーウィン・デイヴィスとコンビを組んでいた死者との対話にあるんじゃなかろうかと、いつにも増して妄想したくなります(笑)。


『オデュッセイア』の冥府行きには、アガメムノン、アキレウス、大アイアス等々、トロイア戦争の名立たる勇者の霊魂と対話する場面があり、オリュンポスの神々のように永遠の命を得る事が出来ない、限りある生を生きる他ない宿命を背負っている人間が、永遠の命の代替え品として手に入れたいと渇望する不朽の「名声」を得た勇者達さえ、死して尚、満たされることのない空しさ、儚さをオデュッセウスに語るんです。死者=「彷徨える魂」の孤独な咆哮は、オデュッセウスを何としても祖国へ戻ろうとする、強固な決意へと向かわせるんですね。
林の中に消えたネコは、長年コンビを組み、ルーウィン・デイヴィスより才能も名声もあった自殺した相棒の霊魂で、音楽の道を目指し、挫折しそうになってる彼を導く「指標」じゃなかろうかと思っています。

I been all around this world

早朝、喉をゴロゴロ鳴らしてルーウィン・デイヴィスを起こしに来る、ボラインの指標ならぬ、もふもふの愛らしい指標は、ドアマンのごとく玄関の扉を開けさせるために人間を躾けちゃってるわけで*2茶トラのユリシーズ君の英雄譚も同時に見たかったなぁ、コッチが主でも面白そうなんですが、ネコ好き以外にはそっぽを向かれちゃうかも。。


オスカー・アイザック「ハング・ミー、オー・ハング・ミー」 - YouTube


劇中で2回、デイヴィスが唄う『ハング・ミー、オー・ハング・ミー』が良いですね。序盤とラストで同じガスライトカフェが登場する円環構造ですが、同じ歌を歌う彼の心の内は随分と変化したのではないでしょうか。そこそこの才能はあるものの名声とは無縁、かといって、ジム(ジャスティン・ティンバーレイク)やジーン(キャリー・マリガン)のように枕営業までして成り上がるには潔癖すぎるきらいのある彼が最後に流れ着いた故郷には、後に時代の寵児となる真の天才ボブ・ディランが登場します。時の流れは残酷で、デイヴィスが見つけた最終目的地も世代交代の荒波に掻っ攫われていくんでしょうね。人生の儚さ、その苦さまでも透徹する唄の歌詞にしんみりしてしまいました。この歳になるといろんなことが染み入るようになります。。
シカゴで、残雪を踏み抜いて濡れた靴下のままダイナーに腰掛けてる デイヴィスのどうしようもなさは、コーエンらしい可笑しみと苦さの入り混じる印象的な場面。じめじめと濡れた冷たいくつ下って、わずかに残ってる尊厳やプライドも奪い去るくらい破壊力がありそうですもの。

ジーンの威勢の良い啖呵も大好きです。“コンドームを2重にしろ”から“”一切の生き物に触れるな“”いっそコンドームの中で暮らせ”と、一気にデイヴィスを完膚なきまでに追い込みながら最後の一線で懐の深い慈愛を滲ませるジーンはステキです。エンジのセーター越しの胸のふくらみは、当時のブラがボディメイクなんてそっちのけだったんでしょう、寄せてあげてない自然でちょっと間抜けに見えるおっぱいの位置で、ものすごく親近感を覚えました(笑)。

最後まで疑問が残ってしまったのが、序盤と終盤に登場する「スーツの男」。顔は全然見えないし、デイヴィスを殴ってますしで、とても気にかかる人物なんです。最初に登場した後、ネコの後ろ姿とオーバーラップしたように繋いでいたので、ユリシーズ(オデュッセウス)の上位者、スーツの男がポセイドンなのかしらん?と未だに漠としています。彼の捨て台詞”こんなゴミ溜めのような街なんかくれてやる”も気になりますよね。。

*1:猫の名前が判明するのは終盤ですが

*2:犬を飼うことは出来る。だがネコの場合はネコが人を飼う。なぜならネコは人を役に立つペットだと思っているからだ  ジョージ・ミケシュ

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