ゴーン・ガール(ネタバレ)/薪小屋のパンチとジュディ

That's the Marriage


デヴィッド・フィンチャー監督の新作、観て来ました。面白かったです。
両親によって「アメージングエイミー(完璧な子供)」を演じ続けてきたエイミー(ロザムンド・パイク )が、真のベター・ハーフ(勿論、皮肉込みですが)、生涯に渡る共犯者、破鍋に綴じ蓋etc…クソ女がクソ男を巧緻に張り巡らせた蜘蛛の巣にまんまと捕まえるブラックコメディ、男性から見たらホラー映画にしか見えないんじゃないかしら。。

失踪事件に群がるマスコミ、フェイスブックなどのSNS、狂騒するメディアと好奇心の怪物となった大衆を最大限に利用し犯罪を重ねていく女と言ったら、Imdbのトリビア*1にもあるようにガス・ヴァン・サント監督の『誘う女』辺りを思い出します。
『誘う女』では、ニコール・キッドマン演じる悪女にそそのかされた高校生たちの前にTVのモニターに大写しで登場し、殺人現場に君臨する真の存在を明らかにしたり、ニューハンプシャー州のど田舎で取り残された若者たちの出口のない閉塞感がエッジになっていて、ラストで氷漬けにされた(見た目の美しさに執着していた女が氷漬け=不変の美を得るというシニカルな落ち)ニコール・キッドマンの変わり果てた姿に、スカッと溜飲が下がる快感がありましたが、本作は氷のキッドマンより、より血肉の通ったエイミー像になっていると思います。エイミーの暴走は、夫の浮気(ビッチなデカパイ*2━松浦美奈さんの字幕は良いです)を知った所から始まってるんですよね。


失踪事件を偽装し、夫にその罪をおっかぶせ、逃亡生活に入ったエイミーは、潜伏していたモーテルで大失態を犯します。アメージングエイミーの枷から外れた彼女は、頬もぷっくりしていて、ファッションもダサい。マスコミを賑わしている失踪妻だと悟られない為の変装というより、こっちが素の彼女じゃないかなぁ。。親しくなったバカップル(あくまでフリだけ。ハーヴァード卒のエイミーは、底辺層を心底バカにしてる。飲み物に唾を入れてるんですもの、酷い女です)から逃亡資金を巻き上げられ窮地に立たされた後、旧知の大金持ち、しかもこの男がエイミーに輪をかけたような支配欲の権化で(笑)、彼女が彼の別荘で「完璧な夫」を見事に演じた ニック(ベン・アフレック)のTV映像をクレームブリュレ(?)を食べながら食い入るように見つめる場面には大笑い。
敏腕弁護士にグミキャンディで完璧に躾けられたニックの虚像=虚構が、アメージングエイミーを再び捉えます。死んだ魚のような目をした女に一瞬浮かぶ冴えた瞬間。あぁ、私にはやっぱりこの男しかいないと、虚構の中でしか輝く事の出来ない自分には、同じ穴のムジナ、ニックしかいないんだと覚醒した瞬間なんでしょう。
ニックの趣味はドキュメンタリー番組の撮影手法で臨場感を「演出」し、「本物らしく」見せかける「リアリティ番組」を見る事。彼が望むものは「本物」ではなく、あくまで本物らしく見える「虚構」だったわけで…。残りの人生を虚構にがんじがらめにされても、意外に早く順応してしまいそうですもん。

Punch and Judy

エミリーの仕掛けた罠のひとつ、薪小屋の人形はマザーグース*3にも登場するイギリスの人形劇で、その起源はイタリアの伝統的な風刺劇「コメディア・デラルテ」なんだそう*4
鼻曲りで背むしの醜悪な男が妻を虐待する、元祖DV夫みたいな人形劇なんですけど、エイミーに世間の同情が集まる下地にもなっていてるんですね。荒唐無稽なドタバタ劇は、本作にも通じるかも。均質なリズムで物語る傾向にある(メリハリに乏しく、中盤にダレる)フィンチャー作品には珍しく、二転三転する脚本ですが、作品舞台が豪華な別荘に移る頃、黒い高級車のボディに写り込む艶やかな夜、シックな調度品とエレガントなカメラワーク等『ソーシャル・ネットワーク』でのボストンの夜景が忘れられない私には、撮影監督ジェフ・クローネンウェスの安定感バッチリのお仕事ぶりにも嬉しくなりました。形而下の下世話なお話を豪華な映像でシレッと見せきる、フィンチャー監督の底意地の悪さこそを愛でたい。結婚生活を悪意ある視点からカリカチュアしながら、小売業の雄、ウォルマートや廃墟のショッピングモールをさりげなく潜り込ませる目配せにも成熟を感じます。
いつの間に髪を切ったのか、ファムファタールのイコン、ボブヘアーとなったエイミー(しかも頬はシャープになってる!)がブロンドじゃなく、黒髪だったら良かったんだけどなー。


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ミシシッピの奇跡

2回目観て来ました。まだまだ未消化なんですが、気づいた事を中心に書いておきます。

 ニックが気配を感じてドアを開け、外を窺う場面がありますが、同じくエイミーもモーテルのドアを開け、外を窺っています。
彼はこの後、愛人の存在が発覚し大ピンチに陥るものの、TVインタビューで完璧な夫=虚構を演じて、世論を味方につける。一方、エイミーは、潜伏先のモーテルで金を奪われピンチになったものの、大金持ちのデジー(ニール・パトリック・ハリス)に誘拐、レイプされた被害者を演じて、同じく世論の同情を集める。

両親の創作した虚構=絵本によって“子供時代を奪われた”エイミーが、中古車でミズーリから旅立つ場面が良いですね。
夫に対する復讐から、日記を偽造したエイミーは、所謂Unreliable narrator(信頼できない語り手)で、日記という、書き手が原則一人であるがゆえに、語り手の詐術やミスリードが容認される叙述トリックがまず存在する為、前半部分のエイミーの語る物語は虚実入り交ざります。子供が欲しい妻と口論の末、突き飛ばしてしまう夫なんてその典型でしょう。が、真実を知らない(この時点では)観客はコロッと騙される(笑)。
彼女が車から投げ捨てていたのは、夫の浮気を知ってから書き始めた日記を綴っていた筆記用具の一部なんですよね?。ミズーリから南に向かう旅は、アメージングエイミー━両親が作り上げた「虚像」と現実のエイミーとの乖離に苦しんだ過去との決別もあったんじゃないかと思っています。彼女の死体がゆっくりと水の中に沈んでいく場面は、多分彼女のナレーション付じゃなかったかなぁ(イマイチ自信がないんですが)。ナレーション=一人称の語りだったなら、この場面も虚構=嘘でしょう。エイミーには最初から自殺する意思はなかったと思っています。
彼女が葬ったのは、両親に奪われた子供時代(過去)+結婚生活で、その後のエイミーは「素」そのものでしたもん。お菓子を食べ(ダイエットに気づかって、甘いものを避けてたんじゃないかしら)解放感の中にいるエイミーは幼くて、バカップルの来訪時にドアを開けてしまう所なんか、頭の切れるアメージングエイミーじゃ考えられない事ですもの。

頭蓋骨の中身

OPとラストで同じ(ような)映像が出てきますが、微妙に違っている(エイミーの衣装と角度)ので、ココは単純な過去の回想やノスタルジックな感傷ではなく、その差異(前半と後半で全く変わってしまうエイミー像)を観客に対して投げかけている所なんでしょうね。
“頭蓋骨を開いてその中身を知りたい“と言っていた最初のニックは、妻の事を何も知らないのに、その事に疑問も抱かない能天気な夫。最後のニックは理性*5の範疇でエイミーを理解する事など不可能なんだと知ってしまった夫。
デジー殺害時にどす黒い返り血を浴び、エイリアンが孵化する様に新たに「生まれ変わった」エイミーとの虚構=仮面夫婦であっても、既に「演じる事」に取り込まれてしまったニックは、理性を棚上げにしても、想像もつかない斬新で荒唐無稽な脚本を次々に繰り出す、エイミーの「創造性」の半ば虜になっちゃってるんじゃないかと…。
胎児のように血まみれで帰還し、見事にニックの腕の中に倒れ掛かり、完璧なタイミングで気を失う(勿論、演技ですが)大舞台を無事務めた大女優のエイミーは、男を破滅させる悪女から、ニックにとっての、赤い糸で結ばれた運命的な女=ファムファタールへと生まれ変わったんじゃなかろうかと妄想しています。

*1:http://www.imdb.com/title/tt2267998/trivia?ref_=tt_trv_trvFor her performance, Rosamund Pike drew inspiration from Nicole Kidman's performance in To Die For (1995)

*2:2回目観て気づきました。字幕は「ビッチなデカパイ」ではなく、「巨乳のヤリマン」に訂正します。  12/26  追加

*3:http://mother-goose.hix05.com/Mg5/mg146.punch.html

*4:http://www.virginatlantic.co.jp/letsgouk/bc/bc_45.php

*5:終盤、ニックは泣きじゃくる妹に対して、彼女を俺の理性だと語っています。ニックの理性は、今後の結婚生活は「地獄」への道なんだと分かっている