4デイズ(ネタバレ)/誰も勝者にはなれない

■強制された自白には意味がない

酔ったアメリカ人選手の手助け(フェンスを乗り越える)でパレスチナテロリストが“平和”なオリンピック選手村に侵入、イスラエル選手を惨殺するという恐ろしく皮肉な幕開けだったスピルバーグの『ミュンヘン』。イスラエルの急造テロリストチームが疑心暗鬼に駆られ崩壊して行く様に、報復の連鎖の空しさ、9.11とその後の対テロ戦争もまたテロ行為でしかないと至極全うなテーマ性とは異質な、突出した暴力的表現や、FNの文脈をなぞる古典主義的な映画的快楽が印象に残った作品でした。なんでこんな話から始めるかと言いますと、この72年のミュンヘン事件を契機にテロリストとは交渉しない大前提を欧米やイスラエルが共有し始めたんだなぁって映画観ている最中に、ふと、思いだしたから。。
本作の拷問のスペシャリスト、通称H(サミュエル・L・ジャクソン)は映画でよく登場する戯画化された、暴力に享楽するサディストではなく、非情に冷静な人物。ボスニア出身の奥さんとの関係でも分かるように単純な愛国者でもない、というか表沙汰にできない汚れ仕事を請け負う内に、政府に対して決定的な不信感を持ってしまってるんでしょうね。CIAとは不仲みたいだし。。イスラム系アメリカ人ユスフ(ちなみに新約聖書ではヨセフ。コーランでは預言者の一人)への尋問中にも、奥さんとピクニックしてた。ボスニアで凄惨な暴行を受け家族を殺され、その後、復讐を果たした女、いわゆる喪服のテロリストだった奥さんとHは、平凡でありきたりな夫婦とは違った信頼関係で結ばれているようです。子供に対する思いの強さはそれぞれが失ってきたものがあるからこそなんでしょう。
Hを雇った米軍直属の情報機関(DIA)が司令室に利用したのが、廃校(?)となった学校校舎でした。ブッシュ政権時代の「落ちこぼれ防止法案」に対する皮肉なんでしょうか。。この校舎の中に馬と蹄鉄を描いた看板みたいなのがぶら下がってましたけど、あれは何なんでしょうね、気になります。
1000万人を殺傷できる核爆弾をアメリカ三都市に配置し、監視カメラの前をうろつき“わざと”逮捕、拘束されたユスフ(マイケル・シーン)に翻弄されるFBI捜査官のヘレン(キャリー=アン・モス)。Hのセリフにあったように、彼らはゲームが始まった時点で既に「遥かに遅れて」いるわけで、ショッピングモール爆破の引き金になってしまった自責の念とユスフに嵌められた怒りから、司法長官のお墨付き尋問であってもジュネーブ諸条約を盾に異を唱えていた彼女さえ、良識を捨て、善悪の彼岸をひょいと超えてしまう瞬間がある。グアンタナモ収容所を想起させる拷問の違法性は言わずもがなですが、気になったのが彼女が何度も口にしていた”強制された自白には意味がない”というセリフです。Hも当初から疑っていた通り、ユスフは自身が拷問に耐えうる事を確信した上でこのゲームに臨んでいる(そんなことが可能かどうかはさておいて)、だから本人を肉体的、精神的に痛めつけるだけではなく彼の奥さんを殺し子供までもこの尋問の場に引きずり出さねばならなくなった。でも、ユスフ、最後の爆弾(4個目の核)を教えませんでしたよね。自殺という手段で自ら口を閉ざしてしまったんですから(死者は何も語ることはできない)。ユスフの目的は政治的要求(イスラム的“同胞”意識を刺激する好機を創出する)にあるのではなく、テロ行為自体が自己目的化してしまっているのでは?ヘレンは“あなたは勇敢にもこれだけの拷問に耐えた。立派だ。子供たちもあなたを尊敬する”みたいなことを言ってユスフを懐柔しようとしてましたけど、頭のいい彼に手の内まで見透かされてましたし。米国国民の市民権を有する彼がそこに至った背景は詳しく語られてませんけど、どういう経緯にしろ既に、彼は、神という超越的審級、絶対の審判者を受け入れてしまっているんですよね。原理主義的なコーランの再解釈の前には、世俗での生なんて価値ないでしょうから…。
「ジハード」の名の下に行われる無差別殺戮も、テロの脅威の名の下に秘密裏に行われる拷問も、目的達成の為に恐怖を植えつけ、他者を脅迫する暴力だという点において同じです。ヘレンは核の恐怖の前に押しつぶされそうになりながらも、Hの要求を受け入れずに最後まで子供を守ろうとした、子供を抱き上げ、もう一人の子の手を引いて毅然と指令室を後にするヘレンの姿は神々しいまでに美しい。ヘレンとユスフの子供達が廊下に出た際に、この子供達には窓から差し込む日の光が当たってました。これはとても映画らしい演出。本作で唯一の救いは、日の光に祝福される子供達がいたことでした。