コンプライアンス 服従の心理(ネタバレ)/自己保身の看守、状況の囚人
■“全ての責任は私が取る“は人を操る魔法のことば
ファストフード・チェーンにかかって来た一本の電話。窃盗の疑いを掛けられた若い女性従業員ドリーマ・ウォーカー( ベッキー)を管理する責任から、店長 アン・ダウド( サンドラ) が電話での会話のみで姿を見せない警官を名乗る男の指示に盲目的に従い、やがてとんでもない方向へと事態が進展する様を、緊張感のあるカメラワークで描く心理スリラーです。
本作の元は、全米30州にも渡る広域で起きた実話「ストリップサーチ(サーチは身体検査の事)いたずら電話詐欺事件」で、逮捕された犯人は、米国内の刑務所及び収容所を運営する CCA(Corrections Corporation of America)の社員だったという、信じられないようなオチまでついてます*1
こういった詐欺事件での常套なんでしょうが、犯人が必ずしもすべての情報及び状況を把握しているわけではなく、被害者の側が誘導質問に乗せられて、自ら情報を漏らしてしまう、しかも、その時点では誰もその事に気づいてはいないんですよ。店長のサンドラは犯人が漠とした情報しか与えてない窃盗事件の容疑者の名を、自ら特定してしまいますし、被害者のベッキーも兄の事を話してしまってるんですね。
常識では考えられない、到底ありえない犯人の要求(サンドラの代わりにベッキーを見張ることになった男は彼女にフェラチオまでやらせてる)、犯人の都合の良い方向に誘導されるのには、状況の正確な把握を妨げる心理的要因が幾重にも張り巡らされているからで、端正なフレーム処理との相乗効果と相まって、終始イライラ、ムカムカしっぱなしの90分間でした。こんなにイラッとしたのは、ハネケの『ファニーゲーム』以来で、まんまと作り手の策に嵌っちゃいました(笑)。女性の監視役なら、まず性的な事件が起きる筈もないですが、見張り役が男性に変わるだけで、その可能性はグッと高くなる。観客が想像してしまう犯人の目的と、男性監視役の登場が見事にシンクロするんです、というか、観客がそう思い込まされるんですね*2。時間の経過と共に、電話口で発する犯人の含み笑いがノイズとなって、徐々に違和感として意識せざるを得ない頃になって初めて事件の全容―人を陥れることが目的の愉快犯だと分かる、とてもよく練られた脚本だと思います。
店長サンドラには本部からの覆面視察、前日の冷凍庫の閉め忘れで食材を無駄にした上に、最も忙しい金曜日を少ないスタッフで切り抜けなければならない等々、複数のプレッシャーが圧し掛かっていましたし、彼女の婚約者ビル・キャンプ( ヴァン)はアルコールに目がなく、仕事(大工さんのようですが)が終わるのと同時にビール瓶を手にするような人で、飲酒運転の弱みを犯人にしっかり握られてしまいます。元々主体性に乏しい性格なんでしょう、婚約者のサンドラに管理されてた(仕事後の過ごし方までサンドラに報告していました。彼女はそこまで報告する必要はないとケータイで話してましたが)のは、その方がめんどくさくないからでしょうね。自分で判断せず、とりあえず丸投げしてしまう方がなにかと楽チンですから。。
異常な要求をサンドラに飲み込ませる為に、犯人が何度も使った魔法の言葉が“全責任は私が取る”というもの。警察関係者だと名乗るだけで、その確認の電話をすることさえも思いつかないのは、サンドラ自身がマニュアルでがんじがらめに管理されてるからで、本部長と、警察、二つの権威を纏った犯人からの言葉に服従してしまうんです。何かと失敗続きだった彼女が、自分が現在の地位(ファストフード店の店長)に値する人間だと証明できるチャンスと、ベッキーの身体検査が彼女を拘置所送りにしないで済む唯一の方法と信じこまされる、つまりは彼女を救う事になるという心理的ハードルの低さと、第三者の視線が遠ざけられた閉鎖的空間で理性を狂わされていきます。
自身の良心と矛盾する要求が突き付けられた時に、状況判断の方を変えることでストレスから逃れようとする感情バイアスの恐怖も勿論なんですが、こういう事態に至った登場人物の背景を見せていく手際の良さには脱帽しました。ベッキーの下着が何の変哲もない綿製で、ヴィクトリア・シークレット製のような勝負下着ではなかった(ブラとパンティが揃いじゃない)デコ携帯を持つ、イマドキの若い女の子の意外に質素な実体と外観とのイメージのずれ。中年で容姿もぱっとしない店長サンドラののろけ話を聞きながら、小ばかにしたような笑い声を上げる、それに目ざとく気づいたサンドラの棚越しの視線。屈辱と忍従の圧力下で、心が折れてしまう臨界点に達したベッキーが、状況の判断を放り投げ、ひたすら無関心になっていく場面での、彼女を包む黄色い光。雪解けの時期とはいえ、ずいぶん長い間洗車していないサンドラの車の汚れと車内のゴミから想像できる彼女の性格と、アメリカ社会を蔽うクラス(階級)の呪縛。犯人の要求のままに踊らされたヴァンとベッキーが、サンドラが入室した瞬間に、ある種の共犯関係のようなそぶりを見せる所。関係者の中で唯一マトモな判断をしていたアルバイトの男の子の意見(声)が、コミュニティからはじかれる怖さ。ショッピングモールの駐車場に放置されたカートと、テイクアウトの残骸、徹底したマニュアル化で運営されるファストフード店の喧噪、合理化と市場優先主義の怪物が跋扈する郊外型コミュニティの根源的な貧しさ等、見どころを挙げていけばきりがないんですけど、一番感心したのが、終盤、事件後、ジャーナリストとの面会のシークエンスです。彼女と対面するジャーナリストと、その背後にいる(筈の)事件の顛末を好奇心を疼かせながら見守る大衆=メディアによって操作されるマジョリティに媚を売るサンドラの姿。愛想笑いを浮かべ、気さくに世間話をしながら、事ココに至っても人はその弱さ故に自己保身に走るやるせなさには、もう言葉もなかったです。
人である以上、何らかの共同体や社会システムに属しているのは当たり前。目に見える社会的共同体からネット上のコミュニティまで、複数の枠組の中で起こる様々な違和感をどう上手く処理できるかが、頭痛の種になりつつある私の日常を振り返る良い機会になりました。やっぱり違和感を持ちながら何かに帰属するなんて無理!です。それはおかしいんじゃないかと声を上げる勇気は持てなくとも、そういった集団から距離を置く事は出来ますよね。心理的葛藤の解決方法として、コミュニケーションの名のもとに違和感を都合よく誤魔化し迎合するよりも、孤立を恐れない勇気を忘れないでいたい。。
*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%9A%E3%82%89%E9%9B%BB%E8%A9%B1%E8%A9%90%E6%AC%BA
*2:看守が女性から男性に交代するタイミングで、声だけだった犯人の顔が分かります。ココはホントに上手い。私たち観客は、犯人の目的が男性の見張り役でなければ充足しないんだと嫌でもそう思い込まされる。男性監視役が犯人の欲望を「代理する」と思っちゃうんですよね。