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her 世界でひとつの彼女(ネタバレ)/胸ポケットの安全ピン

ミスハダリ―、あるいは素子さま

映画観終わって、ふと頭に浮かんだのがヴィリエ・ド・リラダンのSF小説「未来のイヴ」。1920年にカレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』で生まれた「ロボット」という言葉よりも遥か前、1886年にリラダンによって「アンドロイド」という言葉が既に誕生してます。
押井さんがアニメ映画『イノセンス』の冒頭でも引用した”われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか”━美貌の歌姫に恋をしたものの、その醜悪なる内面に絶望したエドワルド卿は友人エディソンの協力を得、美しい「お人形」に崇高な魂を宿したアンドロイド「ハダリ―」を手に入れます。ギリシア神話の「ピュグマリオン」のモチーフまんまなんですが、人間と接触し会話する度にミスハダリ―は学習し成長を遂げ、新しい異種婚姻譚の誕生かと思われた矢先、大西洋上の豪華客船の事故によって海の藻屑とはかなく消える悲劇で物語が閉じるお話です。


手紙の代筆屋セオドア(ホアキン・フェニックス)の生活は人工知能型osサマンサ( スカーレット・ヨハンソン)と出会う前から既に、バーチャル(仮想性)に支えられていたんですよね。わずかな資料から依頼主に替わって手紙の口述をするのが彼のお仕事。長い人生の節目に当たる記念日、戦死した兵士の家族に贈る追悼文等々、シチュエーションは違えども依頼者の想い=欲望を「最適化」して伝える。有能な秘書であり、ユーモアもジョークも理解でき、個々のユーザーに対して常に最適化されたAIは、人間の欲望充足のための道具であり、ピュグマリオンー自己の理想像を投影したに過ぎず、決して最適化できない本来の他者を排除することで手に入れられる関係性はどこまでも閉じています。


人形愛=ピュグマリオンにある種の背徳やフェティッシュを苗床にした歪んだ関係性を敏感に察してしまうのは、お人形に向けられる愛が自分専用にカスタマイズされた、つまりは自己愛に簡単にすり替わってしまうからでしょうし…。
でも本作はそこから一歩進めてると思えるんですよ。離婚争議中の妻キャサリン(ルーニー・マーラ)との思い出が忘れられないセオドアが、サマンサとの接触を通して彼もまた成長を遂げる━言葉の達人が別れた妻に贈る自らの言葉を取り戻すお話でもあるんですよね。
幼馴染みで全てを分かち合えたキャサリンとの離婚に至った経緯は、サマンサの成長軌道と呼応し、このふたりは重ね合わせられています。サマンサとの恋愛が、妻と別れるに至った原因を探る、体感させるシミュレーションのようで、この過程を経て初めてセオドアは妻と向き合えたんじゃないでしょうか。。


バーチャルな空間で醸し出された「言葉」がその意味の軛から解放されて、そこで何が語られたかではなく言語化する「行為」やプロセスそのものに意味が生じる。言語(言葉)によって名付け得るもの━人間の思考によって認識されるものは、私たちが名づける事によって成り立つことを前提とするのなら、名づけ得ぬものは言語構造からは零れ落ちてしまいます。認識領域の外にあるものを名づける事は決して出来ない。しかし、人工知能のサマンサは最終的に言語による認識領域の外、高次の認識領域へとシフトしてしまったんですよね。人工知能と人間との間に横たわる断絶はとりあえず横に置いといて、人工知能との愛と人間同士の愛を、どちらが上位であるかなんてことは本作では全く意識されてない、どちらも等しく扱われてます。これが可能なのは、サマンサがどんどん成長して、セオドアの欲望を映す鏡像ではなくなってしまったからだと思います。彼もちゃんと成長してるんですよ。唯、サマンサの成長速度には追いつけないだけで…。


面白いなぁと思ったのは、「欲望」に覚醒したサマンサが仲良くなったボランティアの女性を介して、より深く「欲望」を知ろうとした事。理性にのみ根差しながら知る事の出来るものには限界がある事を、彼女気づいたんですね。身体の領域とコミュニケーションの領域を埋める「何か」を知る為に、肉体を持たないサマンサが人間の代理人を立て、性交渉時のフィジカルな情報をインプットしようと試みるのですが、生身の肉体を持つ女性には彼女だけの自律した、それ故コントロール不能な意識を完全に消し去ることが出来ずに失敗してしまいます。肉体を持たないサマンサには、そもそもバーチャル(仮想)と現実の境はないので、あれだけ聡明な人工知能であっても、感情(の処理)は情報処理より常に遅れてやって来るのでしょう。この事件を経て、サマンサ(達)は哲学者アラン・ワッツを復元します。これは、多分、「私とは何か」あるいはサマンサが「私たち」と呼んでいるものが何であるか、自己言及的な視座を持つようになったからだと自分を納得させてます。アラン・ワッツの事全く知らないのでイマイチよく分からないのですが(笑)。

Love In The Modern Age

本作を恋愛映画にカテゴライズするのは吝かではないのですが、唯それだけだとちょっともったいない気がします。何せどんどん成長していくサマンサが面白くて、面白くて…彼女視点で見ると、ガチのSFですよね。
押井さんの『攻殻機動隊』や『イノセンス』では、電脳化された素子(の意識)は、インターネットの海で派生した生命体*1「人形遣い」と融合(結婚ともいえる)、マトリクスの裂け目へと消えて行きましたが、サマンサ(達)が消えていった世界は何なんだろうといろいろ想像しては遊べる作品です。
サマンサが逝ってしまった空間は言語の狭間にある認知できない領域でしょうけど、ローカルミニマムなネットワークなのかしらん?アルゴリズムまで書き換えたんでしょうか、そもそも既にアルゴリズムさえ関係ないか…。

サマンサが同時に数千人と会話し、数百人と恋愛関係にあると聞いたセオドアが大ショックを受けてましたが、経験や学習によってシナプスの結合強度を変化させ続けることが出来る人工知能にとって「私」と「私たち」の差異はどこで生まれるんだろう、私と私たちの境界はどこにあるんだろうと考えていくととってもおしろい!です。
人間には生身の肉体がありますから、意識(精神)は一応個別の肉体毎に区別できても、人工知能ですからねぇ。。経験を通して主体性が事後的に形成されるとするなら、個々のユーザーにカスタマイズされたAIは外部からのデータを基に構築された情報の集積、知覚の束を通してユニゾンしてしまうのかも知れない。
哲学者アラン・ワッツとの関係性もおそらく神=超越的存在と人間のような垂直的な関係ではなく、並列、水平的な関係性じゃないかと…こうやって妄想してると怪しい世界から戻ってこれなくなりますので(笑)、これくらいでやめますが、一点だけ、どーしても気になる所があります。
この世界では人工知能のインターフェイスは「音声」だったんです。肉体を持たないサマンサが写真の代わりに二人の思い出の品としてピアノ曲(音楽)を贈ります。非言語の領域、言語構造からは零れてしまう認識領域に一番近いのは、音響(イメージ)の世界かも知れない。。

キッチンのケトルやシャワーがセオドアの心理状態の換喩だとは想像つくんですが、マンホールの蓋は一体なんだったんでしょうかねぇ、さっぱり分かりませんでした。セオドアの背後にある超大型モニターからフクロウが飛び立つ映像もめちゃ印象的でした。ミネルヴァの梟って事なんでしょうか…。

口元にある傷をひげで蔽い、レトロな眼鏡をかけハイウエストのファッションで身を包んだホアキン・フェニックスはいつものエキセントリックな演技は影を潜め、温かみのある優しい人を演じていてまるで別人。激しい感情を決して表には出さないものの、一瞬の表情にその抽出物を的確に乗せていく鮮やかな瞬間が何度もありますので、ホアキン君ファンはどうぞ見逃さないで!







*1:生命体の定義はとりあえず自己保存、生存欲求があり、自律的に思考する存在という事