猿の惑星:新世紀 ライジング (ネタバレ)/屋根裏部屋の丸窓

Apes not kill apes

覚醒したシーザーの指揮下、人間社会からエクソダスしたサルたちが、ゴールデンゲートブリッジを渡った森で自治権を得る、いわば自由の為の革命だった『猿の惑星創世記(ジェネシス)』の爽快感から一変、本作では戦争がなぜ起きるのかを前面にフィーチャーしてあり、結構重たい作りでした。


序盤、セコイアの森で原始的共同体を営んでいる Ape達が鹿を狩るシークエンスがありますが、「狩り」は戦争(特に戦術)のシミュレーションと大差ないんですよ。獲物と一対一で対峙するのではなく、集団(シーザー達は騎馬隊も有してる)でより多くの獲物を効率よく仕留めるとなると、集団をいくつかに分け、布陣しなければなりませんから、実戦レベルの演習と同じです。
一般的には、狩猟民族には首長(リーダー)が存在しても(首長さえ存在しないコミュニティもある)首長に権力が集中するのではなく、大抵は土着の宗教との間で権力の分散が行われます。狩猟民族の「狩り(狩場)」を神格化し、神聖なる狩場を守る厳格なルールをを設け、その裁定者となるシャーマンなんかがいたりします。狩場=食料の確保が生存の第一義ですから、首領と言えども不可侵なんですね。
馬に乗るサルたちが一部ウォーペイント(顔に白い染料を塗っていた)を施してたので、シーザーのコミュニティにも原始宗教の発芽はありそうなんですが、ソッチに力が入っちゃうと、まんま『アバター』*1になっちゃいますが(笑)。


ALZ113ウィルスにより壊滅状態にある人間社会と、シーザーら知性を持った Ape達、二つのコミュニティーの緊張関係から、インディアンが被った迫害の歴史からパレスチナ問題まで俯瞰するのも面白いんですが、ココはもっと普遍的なフォーマット━原初の時代から、縄張り、資源(食料)の確保を巡る集団対集団の戦闘行為によって紛争の解決を図る、最も原始的で暴力的な営み=戦争の普遍性としてとらえた方が私は好みですね。シーザーが我々は人間たちとは違う、つまりは流血を好まない平和的な種族だと願い、そうありたいと努力を重ねても、資源(水力発電用のダム)を巡って、ある日、戦端が開いてしまうんですもの。

シーザーと人間マルコム( ジェイソン・クラーク )との友情も国家間の外交政策=全面戦争回避の手段とはならず、森とサンフランシスコの市街地、その両方とも火の手が上がる中盤のカットバック以降ヒタヒタと満ちていく不穏な空気は、戦争がどんなに愚かな行為であっても、それを止めるのは並大抵ではない重い現実が圧し掛かってきて、見ている方もとてもつらいものでした。
シーザーを裏切るコバも、堕ちるべくして堕ちたというより、もし彼が人間に虐待された過去がなければひょっとすれば違っていたかもしれない、その可能性が捨てきれない分、余計にやりきれないです。
“Apes not kill apes”━鉄の掟を破ったコバはシーザーのカリスマを持たない代わりに、策士の小器用さ(銃の試し撃ちをしている人間の前で道化を演じていました)と「恐怖」による支配でApeのコミュニティーを乗っ取ろうと画策したものの、彼自身がその裏切り同様、奈落に「堕ちて」行きます。堕ちた仲間の屍の上に、尚も立ち続けなければならないシーザーには、これからどんな艱難辛苦が待っているのでしょうか。。
シーザーの名が示す「カエサルの寛容」は結果的にオクタヴィアヌス(アウグストゥス)に政治の中枢への道を切り開かせました。Apeシーザーには反抗期の息子ブルーアイズ(彼が始めてfatherと話した時は思いっきり感動した)がいますが、父を心から理解した息子の今後も楽しみです。

*1:顔の入れ墨+騎馬となるとネイティブアメリカンを連想しないでいる方が難しい