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毛皮のヴィーナス(ネタバレ)/本物の毛皮を「着た」アフロディーテ

汝の兆候を享楽せよ

ロマン・ポランスキー監督初の非英語言語作品*1
レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』をフェミニズムを導線に解体していくと、支配と被支配のパワーゲーム、マウント合戦の攻防がくっきりと浮かび上がるんだんなぁというのが第一印象でした。オーディション会場に現れた謎の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)を最初は見下していたトマ(マチュー・アマルリック)は、ガサツで知性の欠片も感じられないワンダの指導の下(笑)、徐々に彼自身も気づいていなかった「徴候」を開花させていきます。舞台演出家と無名の女優の立ち位置が、映画の進行と共にどんどん入れ変わっていくんですね。唯、すんなりと位相が反転するわけではなく、虚構が現実を侵食しながらまた少し押し戻されるに伴い、支配関係も少しづつズレていくと言った方が良いかも。


おばちゃん的押しの強さで無理やりオーディションをごり押ししたワンダは、隠されていたトマの性的嗜好、ブルジョア階級で知的で申し分ない恋人がいながら、満たされぬ欲望を抱えているトマを原作のゼヴェリーンと同じだと看破します。トマにはゼヴェリーンと同じく、子供時代に遠縁の厳格な「毛皮を<着た>女性」から折檻された過去(鞭と白樺の枝の違いはありますが)があるんですよ。原作から持ち込まれた設定で一番驚いたのが実はココなんです。成程!と思いましたもん。後でもう一度、ココだけは是非触れておきたい(笑)。トマがワンダに奪われたのは携帯(恋人)と財布(経済を含めた社会的地位)ですから、このお仕置きは結構、厳しいものがありますが…。


ワンダの正体については映画『毛皮のヴィーナス』プロダクションノートであっさりと明かされている通り、ギリシアの女神「アフロディーテ」の降臨でしょう。脚本家で演出家でもあるトマが絶対的権力者として君臨する小さな世界は、ディオニソス的美の女神「アフロディーテ(ヴィーナス)」を召喚してしまったんですね。OP、滑るようにカメラが移動して何者かが劇場に入り、ラストでまた同じように3重の扉*2を音もなく退出していくカメラが捉えているのは、人ならざるものの「気配」の他ならないのではと妄想しています。

私は石で出来た女、「毛皮を着たヴィーナス」、あなたの理想。さあ、跪いて、私を拝むがいい

↑これは原作『毛皮を着たヴィーナス』から拝借した一節で、美しき貴婦人ワンダがゼヴェリーンの欲望の本質をものの見事に言い当てる個所です。外観はヴィーナス像のように気高い美を備え、内面は無慈悲で冷酷な「石」の女(を最初は演じさせられている。終盤に至って、それが演技なのか素なのかを隔てる壁が融解してしまいますが)。その女専制君主から辱められ痛めつけられる度に、喜びにうち震え陶酔するゼヴェリーンは、一見ワンダに支配されているように見えても、その本質は違います。彼らの関係性は「契約」=法で守られた秩序ある世界。ゼヴェリーンはワンダと結んだ契約によって、はじめて被虐の快楽を約束される。反対に、ワンダは契約によって快楽を必ず与えなければならない側に置かれます。表面上は服従しながらもゼヴェリーンが己が欲望に忠実に、新たなプレイ(苦痛)を女主人におずおずと提案する(しかも、これ以上の苦痛を与えられたら、私はもう生きていけませんと言いつつ…笑)。契約を守るには、ワンダは常にゼヴェリーンの要求を受け入れていかなくちゃならないんですね。石の女に自身の理想像を投影するピュグマリオン的な欲動に依拠している以上、見かけの主従関係はいとも簡単に反転してしまいます。


例えば、フランク・オズ監督の『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』に歯医者スティーヴ・マーティンと、 患者ビル・マーレイ が登場する場面なんかもそう。
サディストの歯医者がマゾの患者を受け入れた途端、彼の小王国は崩壊してしまうんですね。治療を隠れ蓑に患者に痛みを与える快楽を貪っていた医者だったんですが、マゾの患者に幾ら痛みを与えても歓喜するばかりで、サドの快楽は満たされない。歯医者が患者に奉仕(治療)する、患者はその奉仕に対して対価を払う。本来の医者と患者の関係性に縛られてしまうんですよ。元々がコメディ作品なので、随分カリカチュアされてますけど、快楽に関する等価交換の原則が守られるために一定の秩序=何らかの法やシステムを利用する以上(『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』なら医者と患者の関係)、サディズムとマゾヒズムは非対称となる事を私はこの作品から学びました(笑)。

フェティシズムの具象

舞台上の張りぼてのサボテンを抱えてワンダが腰を振る、下品だけど可笑しい場面がありましたが、あのサボテンは男根であり、ラスト、そのサボテンに括り付けられ放置されるトマの哀れな姿から、サボテンがファルスの代理である事は想像できます。その他にも、鞭、ブーツと言った男根との換喩が成立するアイテムが散りばめられていますし、女性から受ける屈辱(靴で踏みつけられ、鞭打たれる)快楽に男根が関わってくるのは、男根の代理をつけた女性=理想の自画像じゃないかなぁとフロイトみたいな事を言ってお茶を濁しておくことが出来ても、肝心の「毛皮」の方が良く分かりません。権力の象徴には違いないでしょうけど…。
トマ(およびゼヴェリーン)が女性に求めるのは、ただの美女じゃない、毛皮を「着た」美女なんです。両者は商品(毛皮製品)の神秘的な性格に惹かれてるんですよね?。毛皮を纏う事で、中身(女性の身体)の価値が決定するのですから。。防寒やファッションといった、元来の使用価値に由来しない、彼ら独自の「偏愛」=フェティシズムがどういうわけか絡んでくる。毛皮に彼らだけがその価値を知る理想を見出しているみたいで、ココはイマイチ、すっきりしていません。何故両者は毛皮を偏愛するのでしょう?

*1:http://www.imdb.com/title/tt2406252/trivia?ref_=tt_trv_trv Roman Polanski's first non-English-language feature in 51 years.

*2:虚構が多層化されている作品で、おそらく劇場の扉の数と同じじゃないかと思います