アメリカン・ドリーマー 理想の代償(ネタバレ)/廃馬とそれを撃つ側

移民の第2波

財政は破たん寸前、警察組織にまで汚職が蔓延り、治安が悪化。お金持ちたちは安全を求めて「郊外」へ脱出していった1981年のニューヨークが舞台。ロシア系ユダヤジェームズ・グレイ監督の『裏切り者』も本作と同時代の作品ですよね。ニューヨークの治安が悪化した原因はそう単純ではないでしょうけど、要因のひとつにヒスパニック系(ラティーノ)移民の増加が挙げられるんじゃないでしょうか。『裏切り者』に登場するホアキン・フェニックスはヒスパニック系で、ジェームズ・カーンの経営する会社での汚れ仕事、大物政治家も巻き込んだ贈収賄に関わる実行部隊を任されていました。本作のアベル・モラレス(オスカー・アイザック )もヒスパニックです。

20世紀初頭、アメリカに渡った移民たちは主に南欧、東欧のホワイトエスニックと少数のユダヤかアジア系。西部開拓時代より遅れて*1アメリカに渡った移民たちは、仕事を求めて都市部に留まり、それぞれ特色あるエスニック集団を形成。プロテスタントの信仰を持つ北欧、西欧出身の移民先発組から差別を受けながらも彼らが安価な労働力の供給源となり、20年代の経済繁栄を支えたんですね。

本作でアチコチで引き合いに出されてる『ゴッドファーザー』2部作のドン・ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)はイタリアシチリア出身のホワイトエスニック。ニューヨークマフィアの父ヴィトーからボスの座を継承したマイケルコルレオーネ(アル・パチーノ)の、撮影監督ゴードン・ウィリスが鮮やかに切り取る深い翳りは、同じくマフィア(ギャング)との関わりを事業の出発点とする他なかった本作のアベルの苦悩と重ね合わせてみたくなっちゃいます。何せ、床屋まで登場しますから…。
彼の事業は妻アン(ジェシカ・チャステイン)の父、ギャング(クイーンズ地区かな?)の義父から受け継いだ小規模な会社が基になっているんですよね?『ゴッドファーザー』では血生臭いマフィアの抗争の影で対比される家族間でのいかんともしがたい血の繋がり、愛憎の歴史を情緒豊かに描いていましたが、本作にはそこまでの叙情性はない、というかアベルには『ゴッドファーザー』のマイケルの父ヴィトーのような唯一無二の絶対の父、メンターであり同時にロールモデルのような存在っていたんでしょうかねぇ。
アベル・モラレス(Abel Morals)はその名に特徴があって、名の一部に「moral(道徳)」*2本作の中心的命題が含まれています。モラルに反しないクリーンな事業を!を信条に同業者の市場に食い込んでいったアベルは、彼が生まれ持った名に由来する宿命に導かれるまま、大文字の父=法秩序を彼の人生の規範となる「父」の代理人の地位に据えたんでしょうね、きっと。

廃馬を撃つ

帰宅途中に偶然車ではねてしまった鹿を安楽死させられなかったアベルに替わり、躊躇なく銃を放てるジェシカ・チャステインは、ギャングの娘らしい胆力と現実主義に根差した有能さで夫を支えています。マニキュアに傷がつかないよう、鉛筆で計算機を叩いてるのには感心しました。しかも早いんですよ。経理のベテランなんでしょうね、夫に内緒で抜け目なくせっせと脱税にも励んでます。
土地売買の契約の席で、多分、女だからというだけの理由なんでしょうね、伝統的ユダヤコミュニティから弾かれ、冬空の下、優雅なアルマーニのヴィンテージコートを着ながら悪態ついている姿には魅せますねぇ。
この鹿=廃馬を撃つシーンに対置されてるのが、終盤、アベルの会社で働いていた同じヒスパニック系の青年が自殺する場面だと思うんですね。
頭部を貫通した銃弾がオイルタンクに跳弾した際、絶命した青年の下に駆け寄るでもなく、アベルは冷静にドクドクと血のように流れるタンクの漏れをハンカチで塞いでいました。
”成功が大事なんじゃない、そこに至る道が大切なんだ”の信念通り、彼は正しい道を歩んできた(つもり)だったのでしょうが、その影で汚れ仕事や危険な仕事を引き受けてくれる人物がいたからこその「クリーンな道程」だったわけで…。彼の成功にはこのクリーンな人物であるとの看板イメージが不可欠だったんだと思います。
序盤、全財産をつぎ込んで土地買収に奔走するアベルの度を越した土地に対する執着(妥当な条件での賃貸契約も可能だったのに、アベルは土地の所有に拘りました)を弁護士は不思議がってましたが、終盤ユダヤ系コミュニティから手に入れた土地が現れる場面を見て、私は納得しちゃいました。
安価な夏場に仕入れ需要期の冬場でより高値で売りさばく、彼のビジネスモデルを実現させてくれる約束の地は、マンハッタンの一望出来る絶好の場所。この地に魅入られた時からアベルは既にルビコン川を渡ってしまったのかも知れません。

*1:1890年の国勢調査により「フロンティアの消滅宣言」が報告される。アメリカにおけるフロンティアとは、インディアン掃討の最前線でもあり、フロンティアの消滅はインディアンの組織的抵抗の終焉を意味する

*2:http://www.imdb.com/title/tt2937898/trivia?ref_=tt_trv_trvThe name of protagonist Abel Morales is a play on the words "Able" and "Morals", the central themes of this film.

ナイトクローラー(ネタバレ)/夜に這い回る空腹のコヨーテ

盗人のわらしべ長者

ジェイク・ギレンホールが役作りの為に20ポンド減量して臨んだ*1本作、かなりの後味の悪さなんですが、面白かったです。

 Imdbトリビアにあるように、ルイス・ブルームを表象するイコンは「腹を空かせたコヨーテ」なんですね。ココに着目したジェイク・ギレンホールは素晴らしい。
北アメリカ大陸の広域に分布するコヨーテは、生まれ持った適応力の高さで、その生息範囲を拡大してきました。知能が高く、視覚、聴覚、嗅覚を効率よく統合しどんな環境の変化にも耐えうるその生命力は、アメリカの先住民ネイティヴ・アメリカンの民話にも登場します。
自然の中に溶け込むようにして暮らしてきたインディアンたちの伝承には、身近にいる動物たちが様々な伝承の主人公を担うケースが多く(天地創造神話も動物たちが重要な働きをしている)、ジャコウネズミや亀、ウサギやビーバーといった動物たちと共に、コヨーテにも重大な役割が与えられています。
狡猾な「トリックスター」であるコヨーテが火を「盗む」、『火を盗んだコヨーテ』の民話
火を盗んだコヨーテ (クラマス族) - サンタフェより
はよく知られてるんじゃないでしょうか。。

 作中でルイス・ブルームの出自やその背景等は一切、語られません。彼は映画の冒頭から「盗人」として登場し、最後まで「盗人」のままで終わります。
生活に困り、銅線やマンホールの蓋を盗んでは金に換え小銭を得ていた頃と大した違いはない、盗む対象がモノから、被害者のプライバシー、ライバルのノウハウ、情報を巧みに改竄する編集技術、警察に知らせなければならない筈の情報、はては人の命に置き換わっただけに、私には見えるんですね。
暴行を加え無理やり奪った腕時計を、最後まで肌身離さず身に付けていたのは、天職と出会えた幸運のお守りくらいに思っていたんでしょう、盗品を身に付ける事で生まれる宿命の綻びすらルイスを捉えることが出来ないんです。


 本当に上手いなぁと思ったのは、ビデオ機材片手に殺人現場に不法侵入した際、被害者の血が偶然付着したシャツのシークエンス。
このシャツは、ルイスが毎朝丹念にアイロンかけしていたものなんですよね。観葉植物の水やりとアイロンかけ、彼の孤独が浮かび上がるエピソードですが、シャツについた被害者の血は画面には登場せず、替わりに現れるのは、殆ど瞬きをしないで語るルイスの怪物性です。
血の付いたシャツが動かぬ証拠となり、これが転落への幕開けになるのでは?と身構えてしまった私は、まんまと作品の罠に嵌りました(笑)。

 彼が粛々と実践していく成功哲学は、ネットで漁ったお手軽な自己啓発が中心で、その薄っぺらさから富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる新自由主義の構造的欠陥と重ね合わせるのは容易だと思います。
市場原理主義が齎す過度の競争社会、経済成長の名の下に負の資産(リスク)を押し付け合うシステム=逃げ遅れた者が真っ先に悪魔に食われる「弱肉強食の荒野」で狡猾に立ち回るルイスは、コヨーテの名に恥じぬ勤勉さと上昇志向で、メディア界でのし上がっていきます。

ルイスは最初から最後まで首尾一貫して変化も成長もしないのに対し、彼と公私両面で関わってしまったTVディレクター、ニーナ・ロミナ(レネ・ルッソ)の転落ぶりは痛ましい。厚化粧では誤魔化しきれない加齢と、言葉巧みに近づいてきたルイスを、仕事のパートナーとしても男女関係としても切れずに、ズブズブと深みに嵌っていく女が、支配していた筈の者にいつの間にか支配されて行くのにはゾクゾクしました。彼女は虚構=サバービアの物語に縋る事で自己を保とうとするんですが、そもそもルイスには、モラルどころか虚構=物語すら必要ではないんですね。
 でもね、神話的功労者、文化的英雄の地位から引きずり降ろされた悪しき破壊者、現代のトリックスター、ルイス的なるものが創世する新秩序なんて、私は見たくはないです。
そういう意味でも、ルイスの転落を描かず、上昇とその運動の限界点近くまでしか見せなかった本作は、悪しきものが罰せられる勧善懲悪の物語の心地よさはなくても、一種のピカレスクロマンのような、裏返った、ほの昏い魅力を発散する作品としての完成度は高いんじゃないでしょうか。
既にアチコチで比較されている「大統領候補暗殺」と「12歳の娼婦」のイノセンス(一方的な押し付けですが)という虚構=物語を必要とした『タクシードライバー』のトラヴィスより、他者に対する想像力を著しく欠き、自己の定めたルールにのみ忠実だった『ノーカントリー』のシガーの方が、よりルイス像に近いかなぁ。。

*1:http://www.imdb.com/title/tt2872718/trivia?ref_=tt_trv_trv Jake Gyllenhaal lost 20 pounds for his role. This was Gyllenhaal's own idea, as he visualized Lou as a hungry coyote.

パージ(ネタバレ)/建国の父に血を捧げよ

レーガノミクスが齎した世界?

8月1日から公開になる『パージ・アナーキー』の前作『パージ』を観て来ました。ホント久々の映画なので、ちょっとワクワクしましたが…。
1年に1晩だけ殺人を含むすべての犯罪が合法となるアメリカが舞台。で、こんなトンデモ法が成立しちゃうアブナイ米国では、どうやら新しき「建国の父」の名の下、犯罪が激減しているらしい。
年に一度の血生臭いお祭りイベントが、民衆へのガス抜き政策だけではなく、経済的弱者やマイノリティを市民が狩り殺す、つまりは犯罪予備軍となるかも知れない貧困層を合法的に始末しちゃいましょうという、無茶苦茶な世界。
犯罪が激減した、見せかけの平和を享受している裕福層は、パージを通して為政者を褒め称える━保守化したアメリカを皮肉る政治的、社会的寓意に満ちた作品です。
『パージ』は粛清の意味なんでしょうね。

ジェームズ・サンディン(イーサン・ホーク)一家に逃げ込んだ一人の黒人青年を巡って右往左往する家族を通して見えてくるのは、家族第一で『パージ』の本質に無関心を装い目をそらし続けた妻と、思春期まっただ中の長女とそのBFを通して炙り出される、一見良識的な父親の潜在的偏見、助けを求める黒人青年に逡巡しながらも救いの手を差し伸べた長男といった具合に、たかだか50年ほど前まではアメリカで吹き荒れていた黒人差別を容易に連想させます。サンディン家を襲う白人集団はお面を付けて顔を隠してましたもん、KKKが頭から被る白い頭巾と同じですよね。


ホームセキュリティーシステムのコードがロナルドレーガン大統領と因縁のある数字が選択されていたり*1ゲーテッドコミュニティと、そこからは疎外されたマイノリティといった図式は、レーガノミクスにより、減税の恩恵を受けた裕福層と、福祉政策費の削減によって切り捨てられたマイノリティといった構図が見て取れます。
その上、ご丁寧にも、エンドクレジットのテロップで、この狂った社会を支えるシステムが何であるか━銃社会とその恐怖から身を守ろうとする市民が求める堅牢なセキュリティ━相反するものがマッチポンプ式に肥大化していった世界のなれの果てだと明確に言語化してしまってるんですよね、ココが本作のウィークポイントかも知れない。

多くのフォロワーを生んだジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」シリーズはいうまでもなく、ホラーやスリラー映画の源流には社会的視座が含まれることはままあります。ただ本作、政治的寓意が突出しているように思えるんですね、その分、ホラーやスリラーの映画的要素にパンチがない。大きな音で脅かしたり、背後にはりつくカメラや、監視カメラの映像等々、どれも見慣れた手あかのついた演出で、知的に構築された筈の政治的風刺が上手く混ざりあってくれないというか…。
ご近所のクッキーおばさんが登場早々怪しすぎて(笑)、この人がラスボスなの?ってすぐ思っちゃいますもの。
恐怖は外から齎されるのではなく、我々の身近に潜むもの。危険なのは「奴ら」=外部ではなく我々の側にある、安全な街=ゲーテッドコミュニティそのものが恐怖の根源(中産階級間のわずかな差異が生む妬み、嫉妬)とする視点も盛り込むのなら、もう少し暈してくれた方が良かったかも。。
ちっこい目をキョロキョロ動かし動揺するイーサンホークは上手いなぁ。こういう小市民的な父親像を演じさせたらピタリと嵌りますね。

*1:http://www.imdb.com/title/tt2184339/trivia?ref_=tt_trv_trv The alarm code that James Sandin enters into his home security system is 101382, this equates to the date 10/13/1982, the date of President Ronald Reagan's Address to the Nation on the Economy

アンダー・ザ・スキン 種の捕食(ネタバレ)/一皮むけば…

ハニートラップの代償

スカーレット・ヨハンソンがボディ・ダブルではなく*1、本物のヌードを披露した作品、レンタルで観ました。
スコットランドの荒涼とした風景の中、白いトランジットバンを運転しながら、獲物となる男を誘い、沼のような異空間に沈める謎の女。沼に捉えられた男たちは、最後には皮一枚残して消えてしまうのですが、単純な食料確保というわけではなく、映画『マトリックス』で、機械たちが生存するために人間をプラントで栽培し生体エネルギーを得ていたと同じく、人(男性)を利用する他に得られない特殊なエネルギー=リビドーを抽出してるじゃなかろうかと思いました。彼女がやっている事って、所謂ハニートラップですよね。自らの肉体をエサに投げ出し、彼女の肉体に惹きつけられる男たちを一本釣りしていく、監視役のライダーさんとの二人三脚のチームプレイ。おっそろしく効率の悪いやり方ですが(笑)。


ひどい皮膚病を患った男性との接触から、人間性(感情)に目覚め、生体エネルギー回収装置として敷かれたレールから逸脱し、生身の肉体を持つ上で当然起きる様々な事(ケーキを食べ、あまりのまずさに吐き出す、性交渉に強烈な違和感を持つ)を体験、最後にはレイプされ、殺され、焼却されてしまう、人間のリビドーを回収していた人工生命体(多分)が、人間のリビドーによって破滅する寓意には、人は見た目に左右される「視る」奴隷であり、同時に無慈悲な暴君にもなれる存在なんだ!とは言っても、残酷でやりきれないなぁ。。彼女には自我の萌芽がありましたもの。


スカヨハの存在感のある肉体が凄いです!二の腕の付け根、むっちりと肉のついた下腹部、中でもローライズのジーンズをはいた彼女のおしりに目が釘付けになりました。決して身長が高いわけではないスカーレット・ヨハンソンですから、アングルによっては手足の短さが際立つんですよ。撮影時に体重も増やしたのか、スーパーモデルのようなスレンダーな肉体では表現できない、アンバランスな、それ故人間らしい「隙」のある肉体が、おそらく男たちにフレンドリーな印象を与えてしまうんでしょうね。完璧なモデル体型だったら、大抵の男性は萎縮しちゃうでしょうから…。


台詞はほとんどなく、シュールな画作りとアバンギャルドな音楽で独自の雰囲気を纏った作品です。お話はシンプルですので、この映像と音に酔える方なら嵌る事間違いなし。SF的主題を捌く手つきから、タルコフスキーに近いものも感じました。ミュージック・ビデオ出身のジョナサン・グレイザー監督はやはり映像派ですね。
男たちが沈められていく沼のような異空間から、無意識やエスといったもの、それらと不可分にあるリビドーとの関係性を見るのも面白そうなんですが、私が一番印象に残ったのは、スコットランドの風景群。中でも寒々しい海岸に取り残される赤ちゃんの泣き声は堪えました。水たまりでのお姫さま抱っこ。ベッドサイドのライトで、局所を確認するスカヨハの後ろ姿。空に拡散していく黒い煤等々、意識に突き刺さってくるような描写が秀逸。

*1:http://www.imdb.com/title/tt1441395/trivia?ref_=tt_trv_trvScarlett Johansson did the nude scenes herself without the use of a body double

毛皮のヴィーナス(ネタバレ)/本物の毛皮を「着た」アフロディーテ

汝の兆候を享楽せよ

ロマン・ポランスキー監督初の非英語言語作品*1
レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』をフェミニズムを導線に解体していくと、支配と被支配のパワーゲーム、マウント合戦の攻防がくっきりと浮かび上がるんだんなぁというのが第一印象でした。オーディション会場に現れた謎の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)を最初は見下していたトマ(マチュー・アマルリック)は、ガサツで知性の欠片も感じられないワンダの指導の下(笑)、徐々に彼自身も気づいていなかった「徴候」を開花させていきます。舞台演出家と無名の女優の立ち位置が、映画の進行と共にどんどん入れ変わっていくんですね。唯、すんなりと位相が反転するわけではなく、虚構が現実を侵食しながらまた少し押し戻されるに伴い、支配関係も少しづつズレていくと言った方が良いかも。


おばちゃん的押しの強さで無理やりオーディションをごり押ししたワンダは、隠されていたトマの性的嗜好、ブルジョア階級で知的で申し分ない恋人がいながら、満たされぬ欲望を抱えているトマを原作のゼヴェリーンと同じだと看破します。トマにはゼヴェリーンと同じく、子供時代に遠縁の厳格な「毛皮を<着た>女性」から折檻された過去(鞭と白樺の枝の違いはありますが)があるんですよ。原作から持ち込まれた設定で一番驚いたのが実はココなんです。成程!と思いましたもん。後でもう一度、ココだけは是非触れておきたい(笑)。トマがワンダに奪われたのは携帯(恋人)と財布(経済を含めた社会的地位)ですから、このお仕置きは結構、厳しいものがありますが…。


ワンダの正体については映画『毛皮のヴィーナス』プロダクションノートであっさりと明かされている通り、ギリシアの女神「アフロディーテ」の降臨でしょう。脚本家で演出家でもあるトマが絶対的権力者として君臨する小さな世界は、ディオニソス的美の女神「アフロディーテ(ヴィーナス)」を召喚してしまったんですね。OP、滑るようにカメラが移動して何者かが劇場に入り、ラストでまた同じように3重の扉*2を音もなく退出していくカメラが捉えているのは、人ならざるものの「気配」の他ならないのではと妄想しています。

私は石で出来た女、「毛皮を着たヴィーナス」、あなたの理想。さあ、跪いて、私を拝むがいい

↑これは原作『毛皮を着たヴィーナス』から拝借した一節で、美しき貴婦人ワンダがゼヴェリーンの欲望の本質をものの見事に言い当てる個所です。外観はヴィーナス像のように気高い美を備え、内面は無慈悲で冷酷な「石」の女(を最初は演じさせられている。終盤に至って、それが演技なのか素なのかを隔てる壁が融解してしまいますが)。その女専制君主から辱められ痛めつけられる度に、喜びにうち震え陶酔するゼヴェリーンは、一見ワンダに支配されているように見えても、その本質は違います。彼らの関係性は「契約」=法で守られた秩序ある世界。ゼヴェリーンはワンダと結んだ契約によって、はじめて被虐の快楽を約束される。反対に、ワンダは契約によって快楽を必ず与えなければならない側に置かれます。表面上は服従しながらもゼヴェリーンが己が欲望に忠実に、新たなプレイ(苦痛)を女主人におずおずと提案する(しかも、これ以上の苦痛を与えられたら、私はもう生きていけませんと言いつつ…笑)。契約を守るには、ワンダは常にゼヴェリーンの要求を受け入れていかなくちゃならないんですね。石の女に自身の理想像を投影するピュグマリオン的な欲動に依拠している以上、見かけの主従関係はいとも簡単に反転してしまいます。


例えば、フランク・オズ監督の『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』に歯医者スティーヴ・マーティンと、 患者ビル・マーレイ が登場する場面なんかもそう。
サディストの歯医者がマゾの患者を受け入れた途端、彼の小王国は崩壊してしまうんですね。治療を隠れ蓑に患者に痛みを与える快楽を貪っていた医者だったんですが、マゾの患者に幾ら痛みを与えても歓喜するばかりで、サドの快楽は満たされない。歯医者が患者に奉仕(治療)する、患者はその奉仕に対して対価を払う。本来の医者と患者の関係性に縛られてしまうんですよ。元々がコメディ作品なので、随分カリカチュアされてますけど、快楽に関する等価交換の原則が守られるために一定の秩序=何らかの法やシステムを利用する以上(『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』なら医者と患者の関係)、サディズムとマゾヒズムは非対称となる事を私はこの作品から学びました(笑)。

フェティシズムの具象

舞台上の張りぼてのサボテンを抱えてワンダが腰を振る、下品だけど可笑しい場面がありましたが、あのサボテンは男根であり、ラスト、そのサボテンに括り付けられ放置されるトマの哀れな姿から、サボテンがファルスの代理である事は想像できます。その他にも、鞭、ブーツと言った男根との換喩が成立するアイテムが散りばめられていますし、女性から受ける屈辱(靴で踏みつけられ、鞭打たれる)快楽に男根が関わってくるのは、男根の代理をつけた女性=理想の自画像じゃないかなぁとフロイトみたいな事を言ってお茶を濁しておくことが出来ても、肝心の「毛皮」の方が良く分かりません。権力の象徴には違いないでしょうけど…。
トマ(およびゼヴェリーン)が女性に求めるのは、ただの美女じゃない、毛皮を「着た」美女なんです。両者は商品(毛皮製品)の神秘的な性格に惹かれてるんですよね?。毛皮を纏う事で、中身(女性の身体)の価値が決定するのですから。。防寒やファッションといった、元来の使用価値に由来しない、彼ら独自の「偏愛」=フェティシズムがどういうわけか絡んでくる。毛皮に彼らだけがその価値を知る理想を見出しているみたいで、ココはイマイチ、すっきりしていません。何故両者は毛皮を偏愛するのでしょう?

*1:http://www.imdb.com/title/tt2406252/trivia?ref_=tt_trv_trv Roman Polanski's first non-English-language feature in 51 years.

*2:虚構が多層化されている作品で、おそらく劇場の扉の数と同じじゃないかと思います

ベイマックス(ネタバレ)/愛のロケットパンチ

鈴と隈取り

『ぼくの地球を守って』の巨大ネコ「キャー」よろしく、兄タダシが残した介護ロボットベイマックスがヒロを抱きしめるCMから、ブラッド・バード監督の『アイアン・ジャイアント』辺りをイメージしてしまったんですが、そんなに間違ってなかった…。天才的頭脳の持ち主ヒロが目指す道を見つけられずに「ロボットファイト」の刹那的空間で見せる捻じれた鬱屈、拝金主義と引き換えに手に入れたものによって破滅していく(ヒロ達に救われますが)クレイ社長等、いくらでも膨らませそうな枝葉を刈り込み、最愛の人を失う喪失を仲間と共有する事で乗り越えていく、とても気持ちの良い作品です。どうしようもないほどの悪人が登場しないんですね。

サンフランシスコと日本が融合した架空の都市、乾いた空気感の中にぬかるんだ路地裏が現れるシーンが好きです。ベイマックスを追うヒロの動きが生き生きとして見えるのは、この皮膚感覚に近い湿度も随分と貢献しているじゃないでしょうか。街の風景が書割ではなく、独自の相貌を纏い立ち現われる瞬間には、実写、アニメに関わらずゾクゾクします。
マーベルコミックスの初のディズニーアニメ化作品で、殆ど知られていない原作「ビッグ・ヒーロー・シックス」が選らばれたのは、原作の縛りが少ない分、よりファミリー向けにアレンジできる余地があるからかも。

理系のオタクたちで構成されるスーパーヒーローチームは人種も様々で、彼らが学ぶ大学はサンフランシスコ工科大学辺りがモデルなんでしょうが、制作総指揮を務めるジョン・ラセターに敬意を表して(笑)、ココは是非、彼の母校カリフォルニア芸術大学*1(カル・アーツ)の名を挙げたいです。

テクノロジーに振り回されるのではなく、それをクリエイティブに使いこなす真のプロの映像作家、しかも、自分の名声ではなく、心から献身して若き映像作家の卵たちに教える事の出来るリーダー  「映画の本当の作り方」アレキサンダー・マッケンドリック著より

1970年代のカル・アーツのパンフレットに書かれている初代映像学部長を務めたアレクサンダー・マッケンドリックへの惜しみない賛辞は、ディズニー社を追われ、ピクサー社を設立、数々の名作を制作し、再びディズニー社に迎えられたジョン・ラセターの姿に重ね合わせてみたいものだなぁ~と。実際、どんな人物か、全く知らないんですけどね、日本のアニメスタジオジブリが後継者への引き継ぎが上手くいかなかったのと比べるとねぇ。。

ジョン・ラセターは宮崎監督の熱烈なファンでも知られていますが、ベイマックスのチップが赤と緑なのは、「ナウシカ」に登場するオームの目の色(興奮すると赤くなり、沈静化すれば青くなる)への目配せかなと…。まぁ、割と分かり易い記号なので、無理やりじつけました(笑)。理屈は抜きに、本作は子供たちが、まず楽しむべき作品ですもの、野暮はいいません。そうそう、小さなお客さんたちに一番受けていたのが、ハイタッチ後の「バラバラ」です。子供たちの笑いのツボはよく分かりませぬ(笑)。
ハイタッチ、抱きしめる手、つないだ手…いくつもの手が最後にロケットパンチとなり、兄の想いが再び甦る「手」のモチーフの重ね合わせはお見事ですね。暴走するベイマックスを何とか止めようと皆が持てる力を振り絞るシーンも好き。

*1:ウォルト・ディズニーとロイ・ディズニーの多大な貢献によって設立されたカル・アーツの第一期生がジョン・ラセター

マイベスト2014

明けましておめでとうございます。

恒例の年間ベストの発表です。例年通り観た順番で。



オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(ネタバレ)/白色矮星のダイヤモンドが奏でる音 - 雲の上を真夜中が通る

タンジールとデトロイトの夜景が最高!




フォンターナ広場 イタリアの陰謀/「鉛の時代」の生みの親は東西冷戦 - 雲の上を真夜中が通る

重厚で正統派の第一級の作品。イタリア映画を観る機会はそうなないので、それだけでも価値あり。


ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅(ネタバレ)/一枚の紙が“時の人”を作る - 雲の上を真夜中が通る

監督書下ろし脚本ではないのですが、ここまでマッチするとは…。



インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌(ネタバレ)/忘れ去られるために、あの場所に還る - 雲の上を真夜中が通る

先に進むにつれ、だんだん細くなるアパートの廊下、ネコ視点の地下鉄の風景、細部が良いです。


her 世界でひとつの彼女(ネタバレ)/胸ポケットの安全ピン - 雲の上を真夜中が通る

セオドア(ホアキン・フェニックス)の背後から捉えた上海の夜景、海岸での散歩等、印象的でした。


「めぐり逢わせのお弁当」
レビュー、まだ書いていないんです、すみません(ぺこり)。



グレート・ビューティー 追憶のローマ(ネタバレ)/どこにも辿りつけない電車 - 雲の上を真夜中が通る

終盤の教会堂で完全に心奪われました。



誰よりも狙われた男(ネタバレ)/世界の平和のために - 雲の上を真夜中が通る

‘fuck’がフィリップ・シーモア・ホフマンの最期のセリフになっちゃったんだよなぁ。



インターステラー(ネタバレ)/見上げてごらん夜の星を - 雲の上を真夜中が通る

ノーラン作品の中では中くらいかな、何せ評判の悪かった「プレステージ」(この作品はとても緻密に作られているんですもの)の方が好きなくらいなので、私の好みは当てにならない(笑)。
終盤の心地よさ、盛り上がりは、もはやお家芸ですね。


ゴーン・ガール(ネタバレ)/薪小屋のパンチとジュディ - 雲の上を真夜中が通る

フィンチャーの円熟を目の当たりにし、今後ますます期待値が高まりました。



昨年は大変動の年で、映画を観る時間も、その感想を書く余裕もない、慌ただしい一年でした。
心配事があると映画に没入できないって事が身に染みた年でもあり、それでも大好きな映画に全く予期せぬタイミングで救われた事も…。
今年も、心に残る作品に出会えますように…。そして、皆様にも、映画との素敵な出会いがありますように…。

いつも訪問して下さる皆様、ありがとうございました。また今年もどうぞよろしく(ぺこり)。

ゴーン・ガール(ネタバレ)/薪小屋のパンチとジュディ

That's the Marriage


デヴィッド・フィンチャー監督の新作、観て来ました。面白かったです。
両親によって「アメージングエイミー(完璧な子供)」を演じ続けてきたエイミー(ロザムンド・パイク )が、真のベター・ハーフ(勿論、皮肉込みですが)、生涯に渡る共犯者、破鍋に綴じ蓋etc…クソ女がクソ男を巧緻に張り巡らせた蜘蛛の巣にまんまと捕まえるブラックコメディ、男性から見たらホラー映画にしか見えないんじゃないかしら。。

失踪事件に群がるマスコミ、フェイスブックなどのSNS、狂騒するメディアと好奇心の怪物となった大衆を最大限に利用し犯罪を重ねていく女と言ったら、Imdbのトリビア*1にもあるようにガス・ヴァン・サント監督の『誘う女』辺りを思い出します。
『誘う女』では、ニコール・キッドマン演じる悪女にそそのかされた高校生たちの前にTVのモニターに大写しで登場し、殺人現場に君臨する真の存在を明らかにしたり、ニューハンプシャー州のど田舎で取り残された若者たちの出口のない閉塞感がエッジになっていて、ラストで氷漬けにされた(見た目の美しさに執着していた女が氷漬け=不変の美を得るというシニカルな落ち)ニコール・キッドマンの変わり果てた姿に、スカッと溜飲が下がる快感がありましたが、本作は氷のキッドマンより、より血肉の通ったエイミー像になっていると思います。エイミーの暴走は、夫の浮気(ビッチなデカパイ*2━松浦美奈さんの字幕は良いです)を知った所から始まってるんですよね。


失踪事件を偽装し、夫にその罪をおっかぶせ、逃亡生活に入ったエイミーは、潜伏していたモーテルで大失態を犯します。アメージングエイミーの枷から外れた彼女は、頬もぷっくりしていて、ファッションもダサい。マスコミを賑わしている失踪妻だと悟られない為の変装というより、こっちが素の彼女じゃないかなぁ。。親しくなったバカップル(あくまでフリだけ。ハーヴァード卒のエイミーは、底辺層を心底バカにしてる。飲み物に唾を入れてるんですもの、酷い女です)から逃亡資金を巻き上げられ窮地に立たされた後、旧知の大金持ち、しかもこの男がエイミーに輪をかけたような支配欲の権化で(笑)、彼女が彼の別荘で「完璧な夫」を見事に演じた ニック(ベン・アフレック)のTV映像をクレームブリュレ(?)を食べながら食い入るように見つめる場面には大笑い。
敏腕弁護士にグミキャンディで完璧に躾けられたニックの虚像=虚構が、アメージングエイミーを再び捉えます。死んだ魚のような目をした女に一瞬浮かぶ冴えた瞬間。あぁ、私にはやっぱりこの男しかいないと、虚構の中でしか輝く事の出来ない自分には、同じ穴のムジナ、ニックしかいないんだと覚醒した瞬間なんでしょう。
ニックの趣味はドキュメンタリー番組の撮影手法で臨場感を「演出」し、「本物らしく」見せかける「リアリティ番組」を見る事。彼が望むものは「本物」ではなく、あくまで本物らしく見える「虚構」だったわけで…。残りの人生を虚構にがんじがらめにされても、意外に早く順応してしまいそうですもん。

Punch and Judy

エミリーの仕掛けた罠のひとつ、薪小屋の人形はマザーグース*3にも登場するイギリスの人形劇で、その起源はイタリアの伝統的な風刺劇「コメディア・デラルテ」なんだそう*4
鼻曲りで背むしの醜悪な男が妻を虐待する、元祖DV夫みたいな人形劇なんですけど、エイミーに世間の同情が集まる下地にもなっていてるんですね。荒唐無稽なドタバタ劇は、本作にも通じるかも。均質なリズムで物語る傾向にある(メリハリに乏しく、中盤にダレる)フィンチャー作品には珍しく、二転三転する脚本ですが、作品舞台が豪華な別荘に移る頃、黒い高級車のボディに写り込む艶やかな夜、シックな調度品とエレガントなカメラワーク等『ソーシャル・ネットワーク』でのボストンの夜景が忘れられない私には、撮影監督ジェフ・クローネンウェスの安定感バッチリのお仕事ぶりにも嬉しくなりました。形而下の下世話なお話を豪華な映像でシレッと見せきる、フィンチャー監督の底意地の悪さこそを愛でたい。結婚生活を悪意ある視点からカリカチュアしながら、小売業の雄、ウォルマートや廃墟のショッピングモールをさりげなく潜り込ませる目配せにも成熟を感じます。
いつの間に髪を切ったのか、ファムファタールのイコン、ボブヘアーとなったエイミー(しかも頬はシャープになってる!)がブロンドじゃなく、黒髪だったら良かったんだけどなー。


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ミシシッピの奇跡

2回目観て来ました。まだまだ未消化なんですが、気づいた事を中心に書いておきます。

 ニックが気配を感じてドアを開け、外を窺う場面がありますが、同じくエイミーもモーテルのドアを開け、外を窺っています。
彼はこの後、愛人の存在が発覚し大ピンチに陥るものの、TVインタビューで完璧な夫=虚構を演じて、世論を味方につける。一方、エイミーは、潜伏先のモーテルで金を奪われピンチになったものの、大金持ちのデジー(ニール・パトリック・ハリス)に誘拐、レイプされた被害者を演じて、同じく世論の同情を集める。

両親の創作した虚構=絵本によって“子供時代を奪われた”エイミーが、中古車でミズーリから旅立つ場面が良いですね。
夫に対する復讐から、日記を偽造したエイミーは、所謂Unreliable narrator(信頼できない語り手)で、日記という、書き手が原則一人であるがゆえに、語り手の詐術やミスリードが容認される叙述トリックがまず存在する為、前半部分のエイミーの語る物語は虚実入り交ざります。子供が欲しい妻と口論の末、突き飛ばしてしまう夫なんてその典型でしょう。が、真実を知らない(この時点では)観客はコロッと騙される(笑)。
彼女が車から投げ捨てていたのは、夫の浮気を知ってから書き始めた日記を綴っていた筆記用具の一部なんですよね?。ミズーリから南に向かう旅は、アメージングエイミー━両親が作り上げた「虚像」と現実のエイミーとの乖離に苦しんだ過去との決別もあったんじゃないかと思っています。彼女の死体がゆっくりと水の中に沈んでいく場面は、多分彼女のナレーション付じゃなかったかなぁ(イマイチ自信がないんですが)。ナレーション=一人称の語りだったなら、この場面も虚構=嘘でしょう。エイミーには最初から自殺する意思はなかったと思っています。
彼女が葬ったのは、両親に奪われた子供時代(過去)+結婚生活で、その後のエイミーは「素」そのものでしたもん。お菓子を食べ(ダイエットに気づかって、甘いものを避けてたんじゃないかしら)解放感の中にいるエイミーは幼くて、バカップルの来訪時にドアを開けてしまう所なんか、頭の切れるアメージングエイミーじゃ考えられない事ですもの。

頭蓋骨の中身

OPとラストで同じ(ような)映像が出てきますが、微妙に違っている(エイミーの衣装と角度)ので、ココは単純な過去の回想やノスタルジックな感傷ではなく、その差異(前半と後半で全く変わってしまうエイミー像)を観客に対して投げかけている所なんでしょうね。
“頭蓋骨を開いてその中身を知りたい“と言っていた最初のニックは、妻の事を何も知らないのに、その事に疑問も抱かない能天気な夫。最後のニックは理性*5の範疇でエイミーを理解する事など不可能なんだと知ってしまった夫。
デジー殺害時にどす黒い返り血を浴び、エイリアンが孵化する様に新たに「生まれ変わった」エイミーとの虚構=仮面夫婦であっても、既に「演じる事」に取り込まれてしまったニックは、理性を棚上げにしても、想像もつかない斬新で荒唐無稽な脚本を次々に繰り出す、エイミーの「創造性」の半ば虜になっちゃってるんじゃないかと…。
胎児のように血まみれで帰還し、見事にニックの腕の中に倒れ掛かり、完璧なタイミングで気を失う(勿論、演技ですが)大舞台を無事務めた大女優のエイミーは、男を破滅させる悪女から、ニックにとっての、赤い糸で結ばれた運命的な女=ファムファタールへと生まれ変わったんじゃなかろうかと妄想しています。

*1:http://www.imdb.com/title/tt2267998/trivia?ref_=tt_trv_trvFor her performance, Rosamund Pike drew inspiration from Nicole Kidman's performance in To Die For (1995)

*2:2回目観て気づきました。字幕は「ビッチなデカパイ」ではなく、「巨乳のヤリマン」に訂正します。  12/26  追加

*3:http://mother-goose.hix05.com/Mg5/mg146.punch.html

*4:http://www.virginatlantic.co.jp/letsgouk/bc/bc_45.php

*5:終盤、ニックは泣きじゃくる妹に対して、彼女を俺の理性だと語っています。ニックの理性は、今後の結婚生活は「地獄」への道なんだと分かっている

インターステラー(ネタバレ)/見上げてごらん夜の星を

引力からのエクソダス

IMAXを含め、2回観て来ました。中々筆が進まなかったのは、終盤の展開━アメリア(アン・ハサウェイ )の御信託(信念と言った方がいいかも)通り、余剰次元で「愛=重力だけが時空を超える」現象シーンが未消化だったため。ボルヘスの「バベルの図書館」の構造とよく似た時空間で、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』にも影響を与えたと言われています。『薔薇の名前』に登場する文書館の隠し部屋「アフリカの果て」が、中世ヨーロッパを中心としたキリスト教圏から疎外された周縁の地域に最も優れた科学、文学、哲学、医学の神髄(その代表がアリストテレス著「詩学」第二部)を内包した「異端」の輝かしき「知」の迷宮が潜んでいたことを暴く大仕掛けに陶酔した経験があって、本作にも何かあるんじゃないかと、必死で目を凝らしましたが、いかんせん、ココには物理学という巨大な壁が立ちはだかり、未だによく分かりません(爆)。

このシークエンスでの撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマのお仕事ぶりは素晴らしい。『ぼくのエリ200歳の少女』や『裏切りのサーカス』でも見受けられた、中央付近の焦点以外周囲がぼやける画(うまく言語化できないのですが)が本棚の部屋で現れます。子供時代のマーフの部屋はクリアで明るく、その境界は透明度を保ちながらぼやけているのに対し、現在の時間軸にいる成長したマーフ(ジェシカ・チャステイン)の世界は落ち着いたマットな仕上がり。 3次元空間を多次元に見せる構造上のトリックにもワクワクしましたが、『インセプション』にもあった、鏡像が無限増殖していく、めまいにも似た感覚は映像でしか味わえないもの、ココは眼福でした。



前に進むには後ろになにかを置いていかなければならない

ニュートン力学が時間を絶対的なもの、宇宙のどこでも時間は等しく流れるものという仮定を出発点にしているのに対し、空間や時間も絶対ではないと仮定する世界は、常日頃、時空間の因果律の囚人である3次元空間の私たちから見ると、ある種の魔法、ファンタジーに近いです。時間と空間の無限とも思える重なりを凝縮した多元空間、クーパー家の本棚(バベルの図書館)とその裏側を結ぶ「重力」のモチーフは、ココ以外にも何度も反復されており、ぶっちゃけ「重力」作用とその反作用の反復によって成り立ってる作品なんですね。

地球環境が悪化し、住めなくなった母星を捨て未知の惑星へとエクソダスする人類移転計画の前にはだかったのは物理的な重力作用ばかりではないです。
冒頭、インド空軍の無人偵察機を我を忘れて追いかけるクーパー(マシュー・マコノヒー)とマーフ親子、父の命令を従順に守り、そこから逸脱する事を恐れる長男。空を「見上げ」心を飛翔させることが出来る父娘と違って、長男の眼差しは「空」には向かわない。これは成長し一家を構えた後も、家族が砂塵の副作用から病気に罹っても父から譲り受けた土地にしがみついて離れることが出来ない長男の性格にも繋がります。空を見上げることを知らない長男には、母なる星の引力に捉えられたまま、この地で朽ち果てるつもりだったんでしょうね。

クーパー(マシュー・マコノヒー)がトウモロコシ畑の中の一軒家(開拓民のスピリットの残骸)を後にし宇宙に飛び出す場面で、車の側面から後方の我が家を捉える、奇妙に歪んだ画がとっても印象的だったんですが、住み慣れた我が家に残していく家族に後ろ髪惹かれる思い━彼を捉えるもうひとつの重力と、人類の未来の為に宇宙に飛び出していかなければならない思い、二つの力に引き裂かれた結果が、歪みとして視覚化されてるんだと思います。

人類の夢を託されたマン博士とクーパー、地球に残されたマーフとその兄とのパートをカットバックで見せてるのは、マン博士の生への執着と長男の土地に対する執着(父から留守を託された長男が背負ってしまったもの)と対置してるからでしょう。人が抱く様々な執着が重力場となり、結果、その時空間に囚われてしまうのに対して、クーパー&マーフ親子には「トウモロコシ」をなぎ倒してでも前に進む勇気(狂気ともいえる)があります。重力の解を得たマーフが研究施設で書類を放り投げるのも、重力からの解放だし、老いたるブラックホール「ガルガンチュア」、その名が示す貪欲な大食漢にシャトルを与え、エドマンズの惑星までの推進力を得るのもそう。後方に捨てていく勇気が前に進む推進力に化けるんですね。

クリストファー・ノーラン作品のミューズ、マイケル・ケイン はそろそろ引退を考えておられるようで、お芝居の中とは分かってはいても、サー・ケインの車いす姿を見るのはちょっと辛かった。サーケインの美声で朗読されるディラン・トマスの詩にはさすがにグッときましたが。。
当初、ジョナサンノーラン脚本で、スピルバーグが監督する予定だった事。スピルバーグ案件なら家族愛が際立つのも、未来に向けての希望を臆面もなく堂々と描くのも、私は納得できます*1
アン・ハサウェイが演じた「アメリア」は、アメリカの女性パイロット、アメリア ・イアハートにちなんだもの*2
人類を死の淵に追いやる砂塵は1930年代、アメリカを襲ったダストボウルがヒントになっており、作品の中でそのドキュメンタリー映像が使用されているらしいこと*3
等々、挙げればきりないくらいImdbのトリビアは充実してますので、一読されると良いかも…。

Interstellar (2014) - Trivia - IMDb



*1:Steven Spielberg, who was attached to direct the film in 2006 and hired Jonathan Nolan to write the screenplay, chose other projects instead. In 2012, after Spielberg's departure, Jonathan Nolan suggested the project to his own brother Christopher Nolan.

*2:Anne Hathaway's character is named Amelia. This may be a nod to famous pilot Amelia Earhart who, like Hathaway's on-screen persona, was a woman who went further than any other person in exploring and flying.

*3:After watching the documentary The Dust Bowl (2012), Christopher Nolan contacted its director Ken Burns and producer Dayton Duncan, requesting permission to use some of their featured interviews in the film.

並べてみると…


Lego Interstellar Trailer SIDE BY SIDE Comparison - YouTube

『インターステラー』の世界を、レゴブロックで再現したもの。
TARSが高速移動する場面は、是非、再現して欲しかったなぁ。各パーツはどう動いてるんでしょうかね。
映画の感想はまだ一行も書けてない。どこを切り口にしようかが、まだうすぼんやりしていて…。おまけに↓のサイトを見ちゃったものだから、俄然興味が湧いてきて、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「伝奇集」を引っ張り出して、読み始めています(笑)。



[L] 映画「インターステラー」で本棚から落ちてきた9冊の本 | ライフ×メモ

(他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気口があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。
どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。回廊の配置は変化がない。一辺につき長い本棚が5段で、計20段。それらが2辺をのぞいたすべてを埋めている。
その高さは各階のそれであり、図書館員の通常の背丈をわずかに超えている。
棚のない辺のひとつが狭いホールに通じ、このホールは、最初の回廊にそっくりな別の回廊や、全ての回廊に通じている。

……中略……

さしあたり、古典的な格言を繰り出せばたりる。図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である      ボルヘス作「伝奇集」より

終盤に登場する四次元空間(?)が、ボルヘスの「バベルの図書館」の構造と似ている(インスパイアされた)って事なんでしょうか。図書館の回廊がワーム・ホールのようでもあるし…。『インターステラー』でのワームホールも球体でしたよね、ふむ…。
ノーラン監督は『インセプション』でも、同じく「伝奇集」に収められている『円環の廃墟』に影響を受けたとインタビューに答えてますが、コッチは「胡蝶の夢」でした。