フィルムコメント誌  50 Best Films of 2013

50 Best Films of 2013 | Film Comment

ニューヨーク、セントラルパーク、ブロードウェイ通りにほど近い好立地にある総合芸術施設「リンカーンセンター」。メトロポリタン歌劇場、ジュリアード音学院、ニューヨーク公共図書館等、アメリカの芸術、文化の一大拠点の中に、1969 年に設立された「Film Society of Lincoln Center(リンカーンセンター映画協会) 」があります。そこが隔月発行している「フィルムコメント誌」の2013年ベストフィルム50がしばらく前に発表されました。
アカデミー賞の有力候補『それでも夜は明ける』を押しのけて、 コーエン兄弟の新作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』が堂々の一位だったり、リチャード・リンクレイター監督『ビフォア・ミッドナイト』が高位置につけたりで、らしい選択だなぁと。。
最近、シネコンに行けば予告編に必ずお目にかかるロン・ハワード監督『ラッシュ プライドと友情』が漏れてるのも結構意外でした。ハリウッド(西海岸)基準とはとはずいぶん違いますね。
ハーモニー・コリン監督の『スプリングブレイカーズ』は仏カイエ・デュ・シネマ誌が選ぶ2013年の映画ベスト10 : 映画ニュース - 映画.comでも選ばれてましたけど、一応観てるんですが、そんなに良かったかなぁ(ぼそっ)。
これから公開される作品は勿論ですが、各映画祭での限定公開のみで、地方ではなかなか見る事の出来ない作品はせめてレンタルで観られるようにTSUTAYAさんには頑張って欲しいのですが、近年、それも厳しいですね。10年くらい前の金獅子賞作が近所のレンタル店に既にない(笑)。
映画も人の出会いとどこか似ていて(と私は思ってるんですが)、出会えない作品はご縁がなかったことにして、さっと諦めちゃう事が多くなりました。歳なんでしょうねぇ、自分でも随分淡白になったものだなぁと思います。

フィルムコメント誌が選ぶ2012年のベスト作品は↓
50 Best Films of 2012 | Film Comment

オンリー・ゴッド(ネタバレ)/カラオケ好きな神さま

「カチン」の剣舞、カラオケのメランコリック

『ドライヴ』のニコラス・ウィンディング・レフンが再びライアン・ゴズリングと組んだ新作を観て来ました。これは中々の珍品。
あんたはキューブリックかい!と言いたくなるほど、シンメトリックな構図*1の他、デヴィッド・リンチ(特に『ロスト・ハイウェイ』)、北野作品等々、映画イメージの断片が脳内に浮かぶものの、そのどれにも似ていない作品です。映画としてのスタイル(様式)を先行するテクストに求めつつ、全く違う着地点━ミャンマーやラオスと接する国境付近を中心に「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれる麻薬の取引地帯を抱えるタイを舞台に、裏返った「西部劇」をやりたかったのかなぁと。。
原題の「ONLY GOD FORGIVES」が示す、赦し(許し)を与え給う神はチャン(ヴィタヤ・パンスリンガム)なんですよね。
前作の『ドライヴ』が西部劇の古典『シェーン』のアップデイトだったのと同様、本作にも西部劇の片鱗が顔を覗かせます。
秩序が確立していない西部(タイ)で、跋扈するならず者(ジュリアン兄弟とその母)を、法の枠内で裁くのではなく、超法規的措置で成敗する「法と秩序の番人」保安官(実際は元警察ですが)のチャンが登場。
物語の構成要素は正しく西部劇なんですが、そこに心理的ミザンセンが重層化されており、酩酊したような不思議な感覚になりました。
大まかに分けると、ジュリアン(ライアン・ゴズリング)の世界(登場場面)は抽象的、象徴的記号に溢れているのに、チャンのパートは具象的世界。
彼が使用する鱧切り包丁をでっかくした様な変わった剣は「カチン」と呼ばれるもので、ミャンマー 、タイ、雲南、ラオス、カンボジア、ベトナム、東アジアの広域で使われるもの*2。その剣が「シャキーン」という冴え冴えとした切れ味をイメージさせるSEと共に背中から現れる(笑)漫画チックな表現や、血の雨を降らせた後に必ずチャンはカラオケバーでメランコリックなラブソング(?)*3を歌いだすシークエンスに、それまで張り詰めていた緊張感がカクンと脱臼させられます。彼によって裁きを下された者を追悼しているのか、神の代理人を請け負う自身の罪を洗い流し、心を清めているのか分かりませんが、可笑しかった。。
女子供には手を出さない、寧ろ彼らの庇護者(守護天使)たるチャンの立ち位置が、暴力性を正当化する担保でもあるわけで、彼が大事に育てていた娘も、血の繋がりのある親子関係ではなく、自ら手を下した罪人の孤児を引き取ってる可能性も捨てられない。ジュリアンの母(クリスティン・スコット・トーマス )の命を受けチャンを追っていた自動車のパーツを扱う小さな会社の経営者も、チャンに“子供をお願いします“と丁寧に頼み込んでましたもの。

私の拳を罰して下さい

オンリー・ゴッドの予告編・動画「ニコラス・ウィンディング・レフン監督メッセージ」 - 映画.com

監督インタビューにあるように、ジュリアンは何度も自分の拳をじっと見つめ、最後にはその拳=彼の持つ男根的な暴力性の象徴を、神(の代理人)チャンによって切断されます。この「去勢」はジュリアン自らが望んだもの。彼は兄のように少女をレイプし惨殺したわけでも、チャンの命を狙ったわけでもない。娘を殺す機会があったにも関わらず、そのコを助けてさえいるんですね。では彼が犯した罪は一体なんだったのかを妄想します(笑)。

作品中に登場する「赤い部屋」。ココはジュリアンの馴染みの娼館の一部だったんですが、壁にびっしり彫刻されていた獣のデザインがとっても気になったんです。
頭部は鳳凰か孔雀に似ていて、胴体部分は蛇。空想上の獣か邪神のモチーフじゃないかと思うんですが、ここからどんどん連想していくと、ギリシヤ神話に登場する、怪物たちの母エキドナに私は行きついちゃいます(笑)。
ジュリアンの母は正に「蝮の女」で、溺愛していた兄も、少女(16歳!)を惨殺する、性衝動と切り離せない暴力性をむき出しにする男でした。
母親の底なしの欲望に飲み込まれ崩壊してしまった兄とは違い、ジュリアンは何とか自己を保とうとしています。一番分かり易いのが、馴染みの娼婦を買った時。イスに両手を縛るのは性衝動と同時に湧き上がる暴力性を封じる為なんでしょう。
母親クリスタルは、子供を支配下に置く「ファリック・マザー」の典型で、この赤い部屋はおそらく母の子宮の具現化なんでしょうね。
終盤、ジュリアンは死体となった母の腹部奥深く拳を突っ込み、彼の男根(拳)は母を犯す、しかも死姦な訳でしょう?血が飛び散り、肉体が引き裂かれるゴア描写より、ココが一番ぞっとしました。。
ジュリアンの罪は、ファルス的な享楽で息子を呑み込もうとした母に対する復讐と表裏一体の甘美な背徳にあり、それを自覚している彼は、罪の贖いとして彼の男根=拳を差出し、神(の代理人)によって再び「去勢」されます。このいかにもなフロイト的な世界観の原型は神話世界では散見されるもので、ファリックな母性の去勢(死)を怪物退治の説話に、その後の新秩序の誕生として父のファルス(本作だとチャンが振るう剣がそれに相当すると思います)を偶像とする神話、伝承は、東アジア圏でも探せば見つかるんじゃないでしょうか。西部劇が暴力の偶像化でもあるんですが。。

赤いガラス玉の暖簾(?)が、娼婦を閉じ込める鳥かごみたいに見えたり、飾り窓の向こう側にいる女たちのゆっくりとした動きが水槽で飼われてる魚の様だったり、とってもスタイリッシュな場面と、血の雨が降るゴア描写との落差で頭がくらくらしそうな作品でした。暴力描写は今後も続くんでしょうかねー、次回作では毛色の違ったもの、観たいなぁ。。

*1:スタンリー・キューブリック監督『アイズ ワイド シャット』のラリー・スミスが撮影監督を務めてる

*2:http://www.imdb.com/title/tt1602613/trivia?ref_=tt_trv_trv The short sword that Chang wields seems to be a 'Kachin dha', from the Jingpho or Kachin people who inhabit the Kachin Hills in northern Burma's Kachin State, and neighboring areas of China and India. The name 'dha' is used for a wide variety of knives and swords used by many people across Myanmar (Burma), Thailand, Yunnan, Laos, Cambodia and Vietnam.

*3:カラオケ曲の歌詞がなかったのでそう推測してるだけですが、こういった所、ちゃんと訳して欲しいものです

小津安二郎 生誕110年/没後50年

ユリイカ 2013年11月臨時増刊号 総特集=小津安二郎 生誕110年/没後50年

ちょっと前に出版されたユリイカの特集です。

ユリイカは映画以外でもちょくちょく買ってるんですが、寄稿者の面子によってかなりバラつきがあって、実際に手に取り読んでみるしかなく、試しに買ってみたのですが充実した内容でとても面白かったです。小津初心者でもこれなら大丈夫でした。
蓮實重彦氏と青山真治監督の師弟(笑)対談もお約束ですね。ハスミン先生は山田洋次監督でリメイクされた『東京家族』について結構な毒を吐かれています。ユリイカでの蓮實重彦氏の対談では出色の出来じゃないでしょうか。後半、どんどんとお話がずれていきますけど、それはそれで味わい深いというか、コッチをもっと語って欲しい。。

以下、面白かった箇所をいくつか、挙げて行きます。

小津は明らかに「違法」(イマジナリーライン*1を超える事)であることを知りつつ「映画の文法」を犯し続けたが、その理由についても全く意識的だった。……中略……狭い日本間でカメラの可動範囲は限られてる。
もし、対面する人物を撮影する時(イマジナリーラインを超えてはならない)という規則に縛られると
「或る一人の人物の背景は床の間だけであり、もう一人の人物の背景は襖とか、あるいは縁側とかに決まってしまう」*2
こうして小津が言おうとしたのは、一つ一つのショットを外部から連結する論理を否定して、ショットひとつの自律的な<強度>を尊重する事である(凡庸と幻視 宇野邦一)

やはり誰もが気にとめるローアングルからのショットについても、小津が無造作に、神秘的ヴェールを剥ぎ取るようなことを書いてる
「カット毎にあっちこっちからライトを運ぶので、2、3カットやるうちに床の上は電気のコードだらけになってしまう。いちいち片づけて次のカットに移るのでは時間もかかるし、厄介なので、床の写らないように、カメラを上向けにした。
出来上がった構図も悪くないし、時間も省けるので、これから癖になり、キャメル(カメラ)の位置も段々低くなった。*3(凡庸と幻視 宇野邦一)

小津作品と言えば「ローアングル」。その成り立ちの秘話は面白かった。
撮影現場での諸事情や、いろんな制約から生まれる創意工夫が小津作品になくてはならない刻印になったんですね。

小津安二郎が『東京物語』を撮った1953年には、尾道の埠頭の周辺はけっして彼が描いたような、秩序だった空間ではなかった。
前後(戦後の誤植?)の混乱の中で不法建築の家々が、まさにフジツボのようにびっしりと群生し、外地から引き揚げてきた日本人と「在日朝鮮人」(サンフランシスコ講和条約の締結後、そう呼ばれるようになった)から成る「国際マーケットが」席捲し、海辺すぐ近くまで迫っていた。
小津はそのような現実を一顧だにせず、あたかも老夫婦の家と埠頭の間に遮るものがないかのように、全ての空間を演出した。彼はスラムなど見たくもなかったし、日本人の観客に見せたくもなかった。
小津のこの措置はフィルムの経済(節約)にではなく、その政治に属するものである (『東京物語』の余白に 四方田犬彦)

この戦後特有の集落の存在を知ったのは、『東京物語』から12年後の1965年に、ドキュメンタリー作家の土本典昭が同じ場所でカメラを廻していたからである。彼がまだ水俣の海に出会う前のことだった。 (『東京物語』の余白に 四方田犬彦)

小津安二郎と土本典昭を同時に映画として愛するなどと、軽々しく口にすることはできない。そのためには相当に鈍感な感受性が必要とされる。
小津は視線の意図的な回避と隠蔽を姿勢の基本において、映画を撮り続けた。彼は「小市民」という松竹の製作方針の枠内を食み出ることなく、「ホームドラマ」というイデオロギーのジャンルに留まった。(『東京物語』の余白に 四方田犬彦)

ずいぶんとラディカルですが、面白いでしょう?これに対する反論は(確か小津監督の戦争観についての本が出版されてたはずですけど、タイトルをど忘れしました)色々あるでしょうし、そういったものと併せて読みたいですね。

東京フィルムセンター展覧会情報小津安二郎の図像学 でも始まっている、小津安二郎とデザインについての一考があったり、エドワード・ブラ二ガンによる『彼岸花』のショット分析があったりで、多方面からのアプローチは映画を愉しむための視座が開けていくようで、こういった内容は地味ですが、私には読みたい批評のひとつです。

*1:対面する人物を結ぶ仮想の線

*2:小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』 日本図書センター p56

*3:小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』 日本図書センター P13

フォンターナ広場 イタリアの陰謀/「鉛の時代」の生みの親は東西冷戦

マフラーとネクタイ

1969年12月12日、ミラノのフォンターナ広場。全国農業銀行が何者かによって爆破され、17人が死亡、88人が負傷した実際の事件を基に映画化された作品。
映画『フォンターナ広場─イタリアの陰謀』公式サイトに載ってる相関図通り、事件関係者の多さ、今なおその真相は闇の中である事等、非常に入り組んだ事件です。チケットを買う際に手渡されたフライヤーにも相関図が印刷されていて、上映前の10分間程、真剣に眺めましたけど、全部覚えるなんて無理だよー(笑)。
本編では、主な登場人物が所属している組織名のテロップがついてたので何とかついて行けましたが…。

銀行爆破事件の容疑者として当局に連行されたアナキスト、ジュゼッペ・ピネッリ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)と、彼を取り調べるルイージ・カラブレージ警視( ヴァレリオ・マスタンドレア)を中心に、警察や公安、司法関係者、大統領や外相など政治の中枢にいる人物達、複数のアナキストグループとネオ・ファシスト、報道関係者や情報をリークする記者、政治(情報局)の背後に見え隠れするCIAやNATOの関与。これだけのスケールの事件を129分のフィルムによく納めたなぁと、まずそこに感心しました。
緩みのない、重厚で正攻法の作りで、音楽も控えめ。
本作に登場するアルド・モーロ(本作では外相時代ですが)が1978年に誘拐、暗殺された事件で関与した「赤い旅団」をマルコ・ベロッキオ監督が映画化した『夜よ、こんにちは』と同じ、イタリア近代史に爪痕を残す事件を扱っていますが、そのアプローチの方法は極北ぐらい違ってます。

ヤルタ会談後始まった「東西冷戦」は、ヨーロッパを蔽い尽くす暗雲、「核」の恐怖でがんじがらめにされていた時代の、圧し掛かる不安感がじわっと画面に染み出すようで、残虐な描写はほぼ皆無、例えば銀行爆破現場には死体すら登場させず、店内に残る書類の紙吹雪だけで、爆破の規模を示す。抑制の効いた語り口はポリティカル・サスペンスとして堂々たる風格に仕上がっています。
爆破現場に駆けつけた検事の額に一滴の血痕が付く。それに気づいた警視とのやり取りと目線の動きだけでその血がどこから落ちてきたかが分かりますもん。
取り調べを受けるジュゼッペ・ピネッリと、彼を取り巻く刑事たちのステージング・ポジションも、舞台劇のようでした。


カラブレージ警視とその妻が新居の内装(壁に架ける画の位置)の相談をしている所から、やがて妻は妊娠、ピネッリの死を当局の口封じだと糾弾する世論の渦中に放り込まれる頃には、第一子が生まれてる。夫が何者かによって殺害された時には、ふたりの子供とお腹の中には新しい命が宿り━CIAで研修を受けたエリート警視は白いトレンチコートにシックな色合いのハイネックセーターと、中々のおしゃれさんなんですが、奥さんの見立てなのかな?(笑)。彼の人間らしい奥行には、この妻との関係が控えめながらアクセントになっています。
朝の慌ただしい時間帯、何を思ったのかネクタイに迷ってる。どこの家庭でも起こる、ごくごく平凡で些細な出来事の後、この夫婦は永遠に引き裂かれてしまったんですね。
国家権力と、その背後にある冷戦構造が、得体のしれない巨大な闇を生み落し、大勢の命と、それに関わった人々の人生を巻き込んでいく。
カラブレージとピネッリ、出身階級も、受けた教育も、思想も水と油ほど違う者達の人生が交差した瞬間、既に人生の歯車は狂い始めていたんでしょうか。それでもこの両者の間にはいくばくかの信頼関係が成立したと思いたいです。

ゴム手袋をはめ、流しにある朝食の後片付けを始める妻の手元を捉える俯瞰ショット*1の何とも言えない不穏な感じ、それが夫の死を予見させる画だったと分かった瞬間には鳥肌が立ちました。
で、「ネクタイ」に対置されてるのが、ピネッリ夫婦の「マフラー」です。左翼運動にのめり込む夫を心配して起きた諍いの後、忘れ物のマフラーを手に部屋を飛び出した妻に向かって、おどけた様に首を差し出すピネッリ。後半、警視が見た幻覚に登場する彼の表情も、とても複雑で、あの表情から何を読みとるべきなのか、ココが一番もやっとしています。。
息子の死の一報を受け、病院に駆け付けたピネッリの母親から、すぅーっと医者たちが離れていく、優雅で残酷な画も印象的。母親の孤独と不安を思うとねぇ…。
夫の死を嘆くばかりではなく、司法解剖の結果も裁判で利用せず、真実を通したピネッリの奥さんも素敵ですね。凛とした女性だったんでしょうね、きっと。。
ノワール映画のように伸びる影、雨を含みしっとりと濡れた石畳、ワイドスクリーンに映える構図も引き込まれました。何せ舞台が北イタリアのミラノですから、建造物や調度品に品格があって、それだけで歴史の重みを感じます。情報局副局長のデスクにあったコレクション、もっとじっくり見たかった。あれは何でしょうね、アンティークみたいでしたが…。

*1:爆弾の起爆装置に食洗機のタイマーが使われていた事もあって、このお宅では事件以降、食洗機を使わなくなったんでしょうか

ウルフ・オブ・ウォールストリート  VFXハイライト

http://video.vulture.com/video/The-Wolf-of-Wall-Street-VFX-Hig#c=VF4KMS2ZMFBZRGPC&t=The Wolf of Wall Street VFX Highlights


先日、発表された第71回ゴールデン・グローブ賞で、レオナルド・ディカプリオがコメディ/ミュージカル部門・主演男優賞を受賞した『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のVFXの動画です。何もそんな所まで使わなくっても良いんじゃない?と思えなくもないのですが…。屋外ロケの何倍くらいお金かかるんでしょうかねぇ。

アカデミー賞のノミネートもhttp://www.allcinema.net/prog/news.php#8144発表されました。
お正月映画が一段落したら、アカデミー賞絡みの作品を中心に、怒涛の公開ラッシュとなります。その間にもミニシアター系で見逃したくない作品が待機してるので、公開スケジュールとにらめっこしながら、あれを見ようか、いやコッチにしようかと迷う贅沢な季節。
アカデミー効果を狙って集中するのは致し方ないのでしょうけど、もう少し公開が分散してくれたら良いんですけどね。

オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(ネタバレ)/白色矮星のダイヤモンドが奏でる音

廻る天体、回るレコード盤

新春そうそう、良い作品に出会えて良かった♪
ジャンルのタグつけはあまり意味ないかもしれませんが、本作、コメディですよね?
アメリカのデトロイト、モロッコのリゾート地タンジール*1と、地球の反対側に住むアダム(トム・ヒドルストン )とイヴ(ティルダ・スウィントン)のヴァンパイアカップル。
一体どれだけの間、生きながらえているのか定かではないんですが、自動車産業の空洞化で廃墟のようになったデトロイトの街で、アンダーグラウンド・ミュージシャン(?)で生計を立てているらしいアダムは、俗悪な人間(ゾンビと言ってましたが)と終わりのない生に倦み、調達屋に木製の銃弾(ヴァンパイアの心臓に打ち込まれる杭の代用品でしょうか)を発注し自殺の準備をし始めます。それを思い止まらせる(自殺衝動はおそらく今回が最初じゃない、何度も死ぬ!死ぬ!と言ってそう)姉さん女房のイブさんが、もうウットリするくらいステキ。
60~70年代に異常なこだわりを持つオタクで、引き籠り、その上コミュ障(笑)の夫をふんわりと包み込む、母性溢れるキャラはティルダ・スウィントン のキャリア初じゃないでしょうか。夜中でもサングラスをかけたまま、タクシーの中で夫を胸元に抱き寄せる姿のお美しい事。元来がこの世のものとは思えぬ美貌(抜けるような肌の白さと皮膚の薄さ、透明感)でヴァンパイアのイメージにドンピシャに嵌ってる上に、気の遠くなるような時間を生き続けなければならないヴァンパイアが、生の希薄さと引き換えに手に入れた膨大な知識から生まれる、ある種の特権階級に纏わりつくスノッブさが毒になっていて、夫婦のありふれた情景に陰翳を作ってますよね。
“モータウン博物館より、スタックス派”に始まり、クリストファー・マーロウやニコラ・ステラ等々、著名な知人の名を挙げながら交わされるぺダンチックな会話は、それ自体をも可笑しみに変えるジム・ジャームッシュの魔法で嫌味にはならない。登場する固有名詞の半分も理解できなかったせいでもあるんですが、知人夫婦のごく私的な内輪の話を聞いているようなものでしたもん。


自分の好きなモノだけに囲まれた「根城」で、デトロイトの街同様、朽ち果ててしまいたいアダムの下に投下された爆弾娘、もう一人のイヴ=エヴァ(ミア・ワシコウスカ)は面白かったです。
楽器に拘り、アナログレコードしか聴かないアダムに対して、「You Tube」で私はOKなんだけどとぶちかます辺りは、昨今の音楽シーンの潮流を嘆く事しかできないアダムの心臓を抉る凶器となる(笑)。
エヴァはドット(水玉)模様のワンピースやタイツを身に付けていて、これはアダム(手袋は黒)とイヴ(手袋は白)の両者を彼女なりに憧れている証なんでしょうかねぇ。
生殖機能のないヴァンパイアがどうやってその血脈を紡いでいるか、「転生」つまり、人の血を吸うだけではなく、どうやるのかは分からないけど犠牲者をヴァンパイア化する方法があるようで、エヴァは多分、イヴによってヴァンパイアにされたんでしょうね。
テムズ川に死体を放り込めば済んでしまった時代は遥かに遠ざかり、21世紀を生きるヴァンパイアの前には、司法や警察が立ちはだかる。病院関係者からきれいな血を得るルートを確保し、目立たず慎ましく暮らしていたイヴたちとは違い、エヴァは中世さながらの野蛮な方法で人を直接襲ってしまう、刹那に生きるヴァンパイア。
エヴァとコミュ障の夫*2をたしなめるイブは本当にステキ。一番好きなのは、終盤、いよいよお迎えが来る(飢え死にしそうになっている)時に“私はもう決めたわ。あなたにプレゼントを贈る、だから全財産頂戴(←あやふやですが)“みたいな事言った時。めちゃ可愛いです。。
アダムに”ゾンビ(人間)の悪行(だったかな?)を数えていたら夜が明けるわ”や”自分の心に囚われるのは時間の無駄”と語る台詞と、ヴァンパイアの設定上の齟齬から生まれる可笑しさに何度もクスリとなりました。
白色矮星のお話も良いですね。「滅びゆく」星に埋もれる巨大なダイヤモンドの音ってどんなのだろう。。
不死のヴァンパイアが年老いた恒星を想う。悠久の時間を生きる事は可能でも空間移動は不向き(とにかく物理的に空間を「移動」するのはとても疲れるみたい。血の在庫が乏しくなったせいもあって、デトロイト→タンジールまでの移動で死にそうになってました)50万光年先にはイヴはどれだけ長生きしても絶対にたどり着けない。この世界のあらゆる知識をアーカイブしている彼女が、その目で見る事の出来ない光景=叶わぬ夢だから、それを夢想する事に「厭きない」のだと思います。夢が現実に浸蝕され「汚れ」てしまわないからでしょうね。

タンジールの路地裏で声をかけてくる怪しげなおじさんたちはドラッグの売人なんでしょう?イヴたちが「血」を飲む、喉元を通過する「生」に刹那の快楽を感じてるのはその恍惚とした表情で分かります。ヴァンパイアにとって、人間の、それも飛び切りきれいな血は単なる食事以上のものなんでしょうね。
回転する星の群れがアダムとイヴ、そしてレコード盤へと繋がるカッコ良いOPから、目の前に現れた美味しそうなカップルに、死に際の美学もどこへやら、早速に押さえられない欲望に突き動かされて、ヴァンパイアの本性を剥き出しにするラストまで、ジム・ジャームッシュには珍しい技巧を凝らした画作りで魅せます。何よりデトロイトとタンジールの街の浮遊感がツボでした。アダムが通る度に、近所の犬が一斉に吠え出すのも可笑しかったです。ヴァンパイアも大変だ(笑)。

*1:ヨットハーバーがちらっと映ってました

*2:不死のヴァンパイアにとって、人間との間に友情が成立しても、気の遠くなるような時間の流れの中ではほんの一瞬の出来事。どんなに大切な人とも必ず「死」という別れで引き離されてしまいます。アダムが人を避けるのには、この身を切るような別れがつらくてそうしてるんじゃないかと思える所がある。とてもナイーブそうですもの

ハンガー・ゲーム2(ネタバレ)/空を射たマネシカケス

炎のウエディングドレス

独裁国家パネムの首都キャピトルは、SF的な近未来都市のイメージから寸分もはみ出さない、鋼鉄とガラスの超高層ビル群といった、手垢の着いた未来都市の表象で塗り固められてますが、そこに何故かしら古代ローマの意匠がひょっこりと顔を覗かせる。
キャピトルの市民の娯楽として「消費」されるサバイバルゲームが、古代ローマの「panem et circenses(パンとサーカス)」*1、本来なら政治システムを監視する市民の目を欺くために為政者が設けた「ガス抜き」イベントをモデルとしているからなんでしょうか、各地区の優勝者が「見世物」として披露されるショーには、チャリオット(戦闘用馬車)まで登場してました。

古代ローマ帝国の市民は、元老院、騎士、市民、属州民、解放奴隷、奴隷と、レイヤー(階層化)されてましたけど、必ずしも一生涯に渡って固定化された身分制度ではなく、流動的だったんですね。政治の中枢を純血種で固める事より「開かれた」人事で、常に新しい血を受け入れてきたのが古代ローマの政治だと思ってたんですが、本作は頑として「閉じた」世界です。
「ハンガーゲーム」の勝者には富と名声が与えられる━その恩恵にはキャピトルでの市民権も含まれるんじゃないか、前作を見た後で漠とそう考えてましたが、違ってました。
ゲームの勝者には確かに一定の富、勝利者だけの居住区「勝利者村」が与えられますけど、キャピトルではなく各隷属地区にあるんですよ。勝利者に「市民権」を与えるつもりもなく、隷属区に縛り付けたままで分断しておきたいんですよね。バカな政治家が考えそうなことですが…。

で、パネムの御威光を誇示する宣伝活動のためにカットニス( ジェニファー・ローレンス )とピータ(ジョシュ・ハッチャーソン )のカップルは、イベントに駆りだされ各隷属区を巡回する羽目に…。こんなもの見せつけて歩けば、ゲームで命を落としたプレイヤーの家族だけじゃなく、長年虐げられてる隷属区の民衆に「蜂起」させる、そのイコンを作り上げる行程にスノー大統領 (ドナルド・サザーランド )が手助けしてるように見えてしまいます。
前作で詰め腹を切らされたゲーム・メイカーに代わって登場したプルターク(フィリップ・シーモア・ホフマン)が中々の策士で、彼の掌の上で踊らされている(であろう)スノー大統領は、常に彼の思惑の裏をかき、ことごとく潰していくカットニスが目障りで仕方なく(愛憎半ばしてそうですけど)、サディステックな欲望にせっせと燃料放り込んでるみたいで、市民に対する目くらましに与えたはずの「心地よい物語」に最愛の孫娘までもが虜になってしまう*2始末。
隷属区の反乱と革命へと発展しそうなトリロジーの最終幕では、カットニス殺害命令も、冷酷な為政者としての選択というより、倒錯的欲望の虜(純粋にカットニスを虐めたい、彼女を自分の足元にひれ伏せさせたい)になった老人のフェティッシュな趣味全開になりそうな予感。ドナルド・サザーランドはソッチ系も十分に熟せる役者さんですけど。。

前作にあった「サバイバー番組(孤島や密林に隔離された参加者たちが賞金や賞品をめぐって争う視聴者参加型番組)」を見る現実世界にいる私たち一般の視聴者と、映画内で「ハンガーゲーム」に熱狂するキャピトル市民が重なる皮肉な視点は最終章でどう処理されるのかが、目下の関心事のひとつ。
監督の変更もあって、前回よりはスムースな流れになってますよね。ゲーム開始までかなりの尺を割いて世界観の説明に当ててますけど、どちらかというと生き残りゲームの方には関心のない私なんかは、この構成の方がより楽しめます。だって、明らかに次回で「革命」やりたそうなんですもの。
原題の「ATCHING FIRE」のように、反乱の萌芽は革命の火へと燃え広がるんでしょうね。パネムの市民層がより前景化し、その中から立ち上がる者達(カットニスのスタイリストなんかもそう)と、隷属区を「繋ぐ」戦いの女神にカットニスが祭り上げられ、解放の象徴となるのでしょうか。
コイバナの行方(笑)は兎も角として、彼女が真に覚醒する瞬間だけは是非観たいので、次回もお付き合いするつもり。

*1:「パン」は小麦の配給、「サーカス」はCircus(競技場)の英語読み

*2:”カットニス達のような素敵な恋がしたい”とつぶやいていた

明けましておめでとうございます。

……とは言っても、もう4日なんですねぇ。。
年末年始はバタバタしていて更新できなかったんですけど、来週から平常運転でいきますので、本年もどうぞよろしく!

年を越してしまいましたが「私的2013年ベスト映画10」の発表をば…例年どうり、観た順番で。DVDレンタルの参考にでもなれば幸いです。



●『最初の人間』
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130116/1358328517



●『ライフ・オブ・パイ』
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130201/1359703721



●『ザ・マスター』
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130329/1364538310




●『マーサ、あるいはマーシー・メイ』
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130405/1365140066




●『コンプライアンス 服従の心理』
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130718/1374137347



●『ペーパーボーイ 真夏の引力』
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130805/1375709342



●『クロニクル』
http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/10/24/184825



●『危険なプロット』
http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/10/31/174000



●『眠れる美女』
http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/11/08/163539




●『かぐや姫の物語』
http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/12/05/185208

ブランカニエベス(ネタバレ)/白と黒の見世物小屋

牛から決して目を離してはダメ

『天国の口、終りの楽園。(アルフォンソ・キュアロン)』、『パンズ・ラビリンス(ギレルモ・デル・トロ)』、『テトロ 過去を殺した男(フランシス・フォード・コッポラ)』等に出演していたマリベル・ベルドゥの、一片の同情も寄せ付けない性悪女ぶりに、終始ウットリしてました。
大金持ちで花形闘牛士アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)の財産と名声だけが目的の女で、入院中は献身的に尽くし、無事入籍を済ませた途端、全身不随となった夫を屋敷の一室に閉じ込め、娘カルメンシータ(ソフィア・オリア)と引き離す。白昼堂々、愛人とSMゴッコ(当然のことながら彼女が女王様です)に耽る、肝の据わった正真正銘の毒婦を実に楽しそうに演じています。
彼女の欲望がどんな豪華な衣装でも誤魔化せなくなった時、顔にブツブツと湿疹が現れる特殊メイクにはぞわ~っとしました。新聞や雑誌の一面を飾る、社交界の花形から彼女を引きずり下ろしたのは(彼女のポジションを奪ったのは)殺した筈の義理の娘だったんですもの。
その罰として(口封じでもあるのでしょうが)、カルメンを仕留めそこなった愛人を殺し(プールに浮いていた死体)、一時的にストレス発散できたんでしょうか、出来物は嘘のように、その後は引いたみたいで、よござんした(笑)。

父アントニオ・ビヤルタが幼い娘カルメンシータに車椅子に乗りながら闘牛士の訓練をしていた場面で”牛から決して目を離してはいけない”と教えていたんです。で、この場面とカットバックしてあったのが毒婦エンカルナのパート。練習用の牛の模型の「目」と彼女の目を同列に繋いでるんですね。カルメンシアータが闘わなければならない牛は、闘牛場の牛、継母のエンカルナの2種類あったという事なんでしょうね。
そう思うと、カルメンシータのペット鶏のペペは雄鶏だったのも頷けます。「時を作る」雄鶏は、早朝一番に鳴いて太陽の前触れを知らせる、闇(悪霊)を追い払うお守りみたいなものだったんでしょうか。。

本作、全編モノクロなんですが、あらかじめカラー撮影したものをポスト・プロダクションで彩度を落としてモノクロにしたようで*1、フォトジェニックなロングショットの美しさ、序盤、擬似アイリスショットで始まる闘牛場へ詰めかける群衆の画(←先行する映画がありそうな所なんですが)、父アントニオの所有する豪邸、風に揺れる木々、祖母の家のパティオ、強い日差しと心地良い日陰 、カルメンシータの母が被っていた白いレースと、終盤闘牛場に現れたエンカルナ(継母)が被っていた黒いベールの対比。祖母自ら手作りしてくれた初の聖体拝領の日のドレスの白。そのドレスが真っ黒に染め上げられるおぞましいショット。たなびく真白い洗濯物のシーツが、まるで映画の「スクリーン」の様に影絵を映し込み、少女時代から娘へと一気に時間を駆け上るマジック。
ドイツ表現主義をはじめとするサイレント時代の映画が持っていた魔法がそこかしこに顔を覗かせる愉しみ*2だけではない、白黒の画がそこには映っていない筈の「色」まで連想させる━リンゴ、口紅の赤、雄鶏のトサカ、闘牛士のマント、流れる血、情熱的で毒々しい「赤」が脳内に溢れる、ちょっと奇妙な映像体験でした。

闘牛とフラメンコ

そもそも、闘牛場自体が「光と影」のイコンのような所があって、闘牛シーズンは春を迎える火祭りの後(3月)から冬の訪れの前(10月)までの期間、およそ「太陽」との関連がありそうな祭りにその原型があるんじゃないかしら?と予想してるんですが(まだ調べてないのでいい加減ですみません)、闘牛場の観客席は日向(sol)と日陰(sombra)、中間(sol y sombra)の3種類に分けられています*3
「闘牛」と言えば、真っ先に思い出すのが、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746 - 1828年)の版画集『闘牛技(タウロマキア)』
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/meihin/kaigai/goya/tauro.html

熱狂的な闘牛ファンだったゴヤは現代闘牛のさまざまな様式が完成された18世紀を生きた、まさに闘牛と同時代の人だったんですね。彼が残した版画集にはモーロ(ムーア)人と闘牛との密接な関係が反映されており*4、過去イスラム支配の時代があったスペインの複雑な文化形成の一端が窺えます。
カルメンシータの祖母、母とも「フラメンコ」の達人で、フラメンコも18世紀の末、モーロ人(イスラム)とヒターノ(ロマ)、二つのエスニックグループがその成立に大きな影響を与えたと言われているもの。当時のヒターノ(ロマ)やモーロ人を簡単に被差別民とタグつけは出来ないでしょうけど、本作の終盤、過去の記憶を取り戻したカルメンシータが、闘牛場を埋め尽くす観衆の拍手と母の思い出のフラメンコが、劇判=音を通して結びつく印象的なシーンもありました。闘牛とフラメンコが父と母の血を受け継いだ彼女の中で完全に一体となって融合するんですね。

王子様のキス

全身マヒとなった父の姿は、同じく全身マヒ状態となった娘カルメンシータの姿とぴったり重なりあいます。父は本物の牛によって、娘は毒リンゴを仕込んだもうひとりの牛エンカルナの手によって…。父の葬儀の際、棺に群がり記念写真を撮ったり遺体を弄ったり、死者に対する冒涜じゃないの?とさえ思える傍若無人な態度を示す客たちの群れがありましたが、見世物小屋で運試しの道具にされていたカルメンシータも同じですよね。
「見世物」を欲する大衆の貪欲な好奇心は「小人闘牛団」にも向けられています。場末の闘牛場を転々とする浮草暮らしの「小人」達には、大衆のあざけりや冷笑こそが飯のタネだったんですよね。カルメンシータを呪縛するのは何も毒リンゴだけじゃない、文盲で文字が読めなかったから悪徳興行主に騙され「永久専属契約」で縛られる。そんな彼女をじっと見守り献身的にお世話をしていた男性が独り、小人闘牛団にいました。
彼女にキスした男(王子様)はふたり(見世物小屋の客は別にして)。最初は継母の愛人が無理やりにでしたけど、でもこの時、彼女は一端は意識を取り戻しているんです。
次が見世物小屋での小人の王子様のキス。伸びた髪を梳き(彼女の髪を梳いてくれたのは、祖母もそう)口紅をつけ、棺の隣に横たわる。小人症(こびとしょう)の彼が気おくれせずに彼女と寄り添えるのは、立ったままではなくて横たわった時でしょうね(視線の高さの違いがなくなるから)。小人の王子様のキスを受けた後、カルメンシータの目から一滴の涙が零れ落ちます。ココはいろいろ解釈が判れそうな所なんですが、私はこの涙は目覚めへの前段階だと受け取ってます。父の入院中は献身的に看病し、その後、掌返しをしたエンカルナとは違い、小人の王子様がカルメンシータを想う心に偽りはないでしょうし…。一緒にまた花火がみられるといいなぁ。。


*1:http://www.imdb.com/title/tt1854513/trivia?ref_=tt_trv_trv  Shot on color film stock and desaturated to black & white in post-production.

*2:http://www.imdb.com/title/tt1854513/trivia?tab=mc&ref_=tt_trv_cnn

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B9%E9%97%98%E7%89%9B%E5%A0%B4

*4:http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/permanent/jousetu-winter2013.pdf

DIOR J'ADORE 美女たちの競演


DIOR J'ADORE [TV FILM] - YouTube

クリスチャン・ディオールのフレグランスのCMです。
ベルサイユ宮殿の鏡の間で開かれるファッションショーのバックステージもの。
シャーリーズ・セロンの他、銀幕の大女優グレース・ケリー、マレーネ・ディートリッヒ、マリリン・モンローがモデルとして登場。CGだと分かっていても、じっと見入ってしまいますね。ゴールドのゴージャスな色使い、ランウェイを颯爽と歩くセロン姐さん、流石に決まってます。相変わらず脱ぎっぷりも良い。このスタイルなら、惜しみなく脱ぎたくもなるわなぁー。レディディオールのバッグまでちゃっかり登場(笑)。
CMディレクターを務めたのがジャン=ジャック・アノー監督。1943年生まれの御年70歳。新作映画はご無沙汰ですが、『薔薇の名前』は大好きでした。映画観て、ウンベルト・エーコの原作に興味を持ち読み始めたものの、あまりの衒学趣味に更に他の本を読まないと理解すら覚束ない蟻地獄に嵌った作品です。
中々DVD化されなかったんですが、公開時とDVDでは終盤での重要なセリフが変わっています。まぁ致し方ない(キリスト教的にはですが)とは言え、オリジナルの方がいいのになぁ。。

薔薇の名前 特別版 [DVD]

薔薇の名前 特別版 [DVD]

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉


Dior Homme - 'The Film' (Official) - YouTube

同じくディオールの男性用フレグランスのCM。
映画「トワイライト・サーガ」シリーズや、クローネンバーグ監督『コズモポリス』のロバート・パティンソンが出演。
レッド・ツェッペリン「胸いっぱいの愛を」がメチャ、カッコいい!